深川にて
春五月、下町散策グループに参加して深川を歩いた。清澄白河の霊厳寺に向かい寛政の改革に名高い松平定信(白河藩主、老中首座、1829没)の墓所を見る。霊厳寺は元来、新川の霊岸島にあったものが「明暦の大火」(1657)以降、深川の新開地に多くの寺社とともに移転して来た。幕末まで八十棟の学寮を擁した増上寺に次ぐ浄土宗の名刹である。「ローマの大火」(AD64)、「明暦の大火」、「ロンドンの大火」(1666)、を以って世界史上の三大大火と言う。言わば賞味期限を迎えスラム化した大都市の下町が、奇しくも同じ頃、江戸とロンドンにおいてその大部分が灰塵に帰したのである。
ローマについては、悪名高い皇帝ネロによるキリスト教徒弾圧の光景と大火が、近代の小説「クォ・バディス」に描かれている。出火原因はネロ自身による都市改造のための陰謀説が囁かれた。しかし、余りにも遠い昔で計り難い。「明暦」は、あの「振袖火事」の恐ろしい物語を残す。ある振袖を引き継いだ三人の娘が相次いで変死する。本妙寺の施餓鬼で厄払いの為振袖を焼いた護摩の火が原因というがお話に過ぎない。隣家の、老中阿部忠秋邸の失火を、密かに幕命が下り、本妙寺が火元を引き受けた。移転も免れている。その後260年間も阿部家より手厚い供養料が本妙寺に支払われ続けたのが証左であるという。一方、ロンドンについては、火の粉を浴びながら大火と付き合った、当時の海軍省高官サミュエル・ピープス氏の日記が事細かに説明する。時はチャールズ一世処刑後の、清教徒革命の最中、カトリック教徒による陰謀と噂が飛んだが、実際は町のパン屋の失火が原因であるという。
江戸城大天守まで焼き、十万人とも言われる死者を出した大火の後、広小路建設や、寺社、武家屋敷、町家の新開地への移転が進む。ロンドンでは4/5が焼失したが死者は五名のみ。以降木造禁止となり、レンガ造りが普及した。また、隅田川、テムズ川とも架橋数が増える。災害がきっかけとなり都市の一大改造が断行された事は興味深い。