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「800字文学館」

ある日森の中で

首藤 静夫

「館長、来てください」。女子職員が高い声で呼ぶ。
 やがて奥から熟年男性がのそりと現れた。
「こちらの方が早朝に撮られたそうです」。彼女は私の写真を館長に見せた。
「うーむ・・・・・・」
 館長は私に会釈した。人なつっこい笑顔なのだが何か意味ありげにも見えた。5月下旬、妙高高原の「いもり池」に隣接するビジターセンターでの会話の一コマである。

 その日早朝、夏鳥観察のためこの池を訪れた。朝がうっすら明けたばかりで人の気配はまるでない。センターから歩き始めて5分ほど、観察地点の近くで木道が点々と変色しているのに気づいた。濡れた足跡のように見える。足跡らしきものは木道を斜めに横切り、また木道に戻り、私の来た方向にむかい、次第に跡がかすれている。犬にしては大きい。変だなあと思いつつレンズを向けた。そこで先が裂けて尖っているのに気づいた。
「クマだ!」
 野鳥どころではない。まだどこかに潜んでいる? 引き返したいがクマはそっちに歩いている。途中で出くわすかも知れない。その反対側は観察地点の灌木だ。灌木の方が怖いに決まっている。覚悟をきめて引き返した。

 話が終わるや、館長は私に同行をもとめて木道を歩きだした。小太りの外股ながら意外に速い。日も高く観光客もいきかう現場なのに何故か気持ちが落ち着かない。水跡は乾いていたがそこに土が残っていた。館長は足跡を追って水芭蕉の群落にはいりこみ、腰をかがめて一本ずつ確かめていった。
「あ、ここが折れている、ここもだ」と言いながらどんどん進む。灌木に入って見えなくなった。
「大丈夫ですか?」と私。まもなく木道に戻ってきた館長、
「やはりクマですね。水芭蕉を食べて宿便を出すんです。だけど人なつっこいのか被害報告はない。大丈夫でしょう」とあっけらかんだ。
 引き返す足がまた素早かった。ぼんやりしていた私はたちまち姿を見失った。そして突然ひらめいた、
(あ、早朝のクマはもしや館長だったか?!)

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