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「800字文学館」

弘智法印の即身仏

大月 和彦

 『北越雪譜』に弘智法印の話が載っている。

 下総の人弘智法印は、高野山で密教を学び、生国下総に帰り大浦(八日市場市)の蓮花寺に住んだ後、諸国行脚に出た。越後に来て三嶋郡野積(長岡市寺泊野積)西生寺の裏の岩坂に草庵を結び、書写・禅定三昧に専念し、貞治2年(1363)ここで入寂した。83歳。
 岩坂の主を誰ぞと人問はば墨絵に書きし松風の音
の辞世の句を残した。遺言により、死後も埋葬せず肉身のまま成仏し、ミイラとして残された。
 越後二十四奇の一つとされ、多くの文人墨客が訪れている。

 『北越雪譜』の著者越後塩沢の人鈴木牧之も寛政年間に弥彦神社に参詣した帰途、西生寺に寄って弘智法印のミイラを拝観した。
 安置されているミイラに近づくことが出来ず、厨子状の座棺に納まった頭部だけを見て、「見るところただ頭部のみ、手足は見えず、寺法なりとて近く観ることを許さず、眼を閉じ皺ありて眠りたるが如し…」と記し、スケッチした「弘智法印枯骸之図」を同書に載せている。

 同じ越後の三嶋郡出雲崎の人で牧之と同時代の良寛は、弘智法印について漢詩を残している。
 名主の生家を出奔、出家し、備前円通寺で修行した後、故郷に近い国上山の五合庵に落ち着いた。五合庵時代の一時期、西生寺に仮住まいしたことがあり、その時によんだもの。

 題弘智法印像
粼皴(りんしゅん)たる烏藤(うとう) 夜雨に朽ち
襴衫(らんさん)たる袈裟 暁烟に化す。
誰か知る 此の老の真面目
畫圖(がと)の松風 千古に傳う。

 (意)―木肌のしわだらけの杖は夜の雨で腐っており、ボロボロの袈裟は明け方の煙に消えかかっている、この和尚の眞面目をわかる人がいるだろうか。袈裟や杖でなく彼自身が詠んだ「墨絵に書きし松風の音」が千年万年に伝わるのだ。

 松尾芭蕉も奥の細道行脚の途中、弥彦神社を参詣した後西生寺に立ち寄ったが記録や感想を残していない。『曾良旅日記』の元禄2年(1689)7月4日に「…辰ノ上刻、弥彦ヲ立。弘智法印像為拝。…」とある。

 参考 『全釈良寛詩集』 東郷豊治著 創元社 昭和37年

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