作品の閲覧

「800字文学館」

美禰子とN子

首藤 静夫

 当クラブの「何でも読もう会」に漱石の『三四郎』が取り上げられた。
 題名の美禰子(みねこ)は作品の中のヒロインである。大学入学のため九州から上京した三四郎は、東京育ちの洗練された、美貌の美禰子に憧れる。しかし彼女に翻弄された挙句にすり抜けられる。

 僕が東京の大学に入学したのは昭和43年。九州の田舎から出て、都会生活に面くらったのは三四郎と同様だ。今でも「田舎者」が時おり顔を覗かせる。
 友人の影響でボート部に入部し、戸田のコースで真っ黒になるまで練習した。 大学には珍しく女子クルーがあり、5人ほどが男子顔負けにオールを引いていた。
 その中にひときわ目立つ容姿の部員がいた。1年上の彼女は広島出身で男子から「N子」と呼ばれていた。日焼けした中にもあか抜けた、プロポーション抜群の人で新入部員のあこがれだった。N子についての他愛ない話でも彼女の名が出るだけで僕たちは胸をときめかした。だが、ボートの合宿は週末だけ、練習・食事もクルーごとに違うので親しく接する機会はなかった。

 対科レース(文系・理系対抗レース)を終えて夏休みに入ると、新入部員は先輩に引率され西伊豆・戸田(へだ)の海の寮で打上げをした。そこにN子たち女子クルーもきていた。寮は美しい松林と砂浜に囲まれ、駿河湾の向こうには雄大な富士が望まれた。昼は海で遊び、夜は遅くまで懇親し、自由な時間を満喫した。
 翌日、N子が近くにいた。赤い水着、砂浜に腰をおろして湾を見ている。話しかけるチャンスだ。だがどうやって――。きっかけが見つからず逡巡していると、K君がちゃっかり間に座り込み、彼女に気軽に話しかけた。彼は東京育ちのスマートボーイ、二人で会話を楽しんでいる。自意識過剰の田舎者の出番はなかった。
 小説の美禰子はエリート青年と結婚する。N子はどうなったのだろうか。実はこの後、大学紛争のあおりでボート部員も四散した。これはその直前の静かな学園生活の一コマである。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧