作品の閲覧

「800字文学館」

隠居名

皆川 和徳

 松本幸四郎が来春、二代目白鴎を襲名すると発表があった。まだ若いのにと思ったが、彼も今年七十五歳である。白鴎は先代幸四郎が、当代に名跡を譲った時に名乗った隠居名である。隠居名の襲名披露興行はおかしな気がするが、松竹の商魂と、今後も第一線で舞台に立つ気構えの表れとみる。芸界では名跡を譲り、隠居名を名乗ることは珍しくない。市川猿翁も猿之助の隠居名である。
 落語界でも林家正蔵が林家彦六を名乗ったのは有名な話。
 幕末には藩政を後継者に委ね本人は隠居名を名乗り、国事に奔走した雄藩の大名もいた。土佐の山内容堂、越前の松平春嶽などが好例である。
 全国を測量し、初めて国土の姿を明らかにしたのは伊能忠敬と伝わるが、彼の隠居後の事業であり、正しくは伊能勘解由の仕事と云うべきであろう。このように、隠居名を名乗りつつ大事を成した人は古今にわたり多数いる。

 戦後、社会規範も法律も変わり、現代の高齢者に隠居は無くなった。引退はあっても隠居はない。隠居名は伝統芸能の世界に残るのみとなった。しかし、現役引退後も第二の人生として、社会の一線で活躍している人も多い。
 翻って我が身を振り返れば、ただ漫然と過ごしているのではないか、という思いがある。一方で、それでいいじゃないか、という気もする。どちらにせよ、何をするにせよ、古希となる節目に隠居名を名乗るのも悪くない。前名と隠居名の間に隔たりがあり、一身で二生を生きるようで楽しくなる。

 まず隠居名を考えよう。俳名を持つ人はそのまま隠居名とする人が多い。俳名など持ち合わせがないので前名の一文字を使い翁をつける。「徳翁」とする。如何にも、陰徳を積んできたようで悪くない。名刺を早速手配する。更に、挨拶状やら表札やらと考えるが何かしっくりこない。「徳翁」がまだ生活や身体に馴染んでいないのでやむを得ないか。じっくり馴染むまで、時を待つことと腰を据えよう。

翁の文字まだ身にそはず衣がえ     初代 猿翁

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧