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「800字文学館」

葛城(かづらき)

斉藤 征雄

 母親が晩年を奈良で過ごして亡くなって今年は七回忌。奈良に行くのもこれが最後かもしれない。そんな思いから、行きたいと思いつつ機会がなかった葛城を訪れることにした。

 古代史で四世紀は謎の世紀といわれるが、この頃大和政権が成立したことは間違いない。政権の拠点朝廷は、奈良盆地の神なる山、三輪山の麓にあったとされる。
 そして大和政権は、四道将軍派遣の説話に象徴されるように各地を平定して政権基盤を固めていった。
 一方、奈良盆地には複数の豪族がいた。中でも西南の葛城山の麓には、葛城氏が朝廷大王家と並ぶ勢力を持っていた。その結果大和政権は、大王家を中心にしながらも葛城氏を含めた諸豪族の連合政権であったと考えられている。
 そのことは四世紀の後半から五世紀にかけて、大和朝廷の拠点が三輪から河内へ移ったことにも関係する。つまり豪族の間で政権交代が起こり、三輪王朝から河内王朝へ王朝が交代したとみる学者が少なくないのである。
 葛城氏は、この河内を拠点とする王朝とも密接な関係にあった。地図を見れば、葛城と河内は地理的に極めて近いことがわかる。それを背景にして葛城氏は河内政権に氏の有力者を送り込み、多くの身内を后妃に当てたことが知られている。
 六世紀になって河内王朝は王統が断絶して、諸豪族は協議して大王に越前から継体を迎える。葛城氏はそれに反対したが抗しきれず勢力は衰え、継体大王は大和に入って朝廷の拠点は再び奈良盆地に戻るのである。

 橿原神宮から近鉄南大阪線で葛城へ向かう。当麻寺駅で降りて、当麻寺から石光寺へと辿った。奈良盆地が一望でき、正面には三輪山がうっすら見える。
 ここはまぎれもなく古代史の舞台だった。京都もそうだが、京都が古代の上にそれ以降の歴史が積み重なっているのに対して、奈良は京都に比べ古代がむき出しのまま見えるから格別である。

 石光寺の住職が「牡丹も芍薬も終わりましたので二百円に値下げしました」といったので現実に戻った。

※「葛城」は現在「かつらぎ」と読むが、本来「城」は「ぎ」とは読まないので、
 古称は「かづらき」だったといわれる。

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