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「800字文学館」

車懸りと鶴翼の陣

志村 良知

 先日テレビで戦国の合戦を近代的に解明してみようという番組を見た。解説の歴史学者によると、戦国の合戦は江戸の太平の世に理屈を捏ねた創作が史実のように伝わっている例が多いという。
 代表的なものが第四次川中島の合戦での上杉軍の車懸りである。13000の軍勢を幾つかの部隊に分けて円形に配し、車輪が回るように常に元気な兵が次々と敵に懸る。一見凄そうだがこれでは軍勢の大部分が遊軍化し、最前線は数的劣勢になって絶対に負ける。
 戦術の鉄則に「撃破されていない敵を前に戦力を分散してはならない」とある。緒戦の武田軍苦戦も、戦い前に軍勢を本隊と妻女山攻撃隊とに分けたことに起因する。

 八幡原で武田本隊が敷いた鶴翼の陣は野戦防御の定石である。敵の攻撃軸を中央に集めて食い止め、両翼の機動部隊が敵の両側面を圧迫しつつ後方に回って包囲するという陣形である。この戦術の大成功の例に第二次ポエニ戦争でのハンニバル軍によるパーフェクトゲーム、カンネーの戦いがある。勝利のカギは正面軍が包囲完成まで耐えることであるが、川中島では武田軍の正面は車懸かりで崩壊寸前になった。
 番組では上杉軍の車懸りとは従来の車輪型ではなく、武器の射程の順に鉄砲、弓、槍、刀を横隊にして前線に順次繰り出し、波状攻撃で武田軍最前線を刈り取っていったという仮説を立てた。そして模擬戦闘で、車輪型で攻めたのでは各個撃破されてしまうが、新陣形では中央を突破し武田本陣への突入成功の可能性があったことを実証してみせた。
 しかし、戦国大名の軍勢は諸豪族の私兵の集まりの文鎮型だったと言われる。果たして豪族の縛りを外した武器別の部隊編成が可能だったか、指揮統制、訓練、戦後褒賞等はどうしたのか。鶴翼の陣でも防戦一方で損害必至の正面先頭部隊と、戦場離脱さえも自由な両翼部隊の統制はどうしたのか。
 戦国大名の軍勢がピラミッド型の指揮系統をもった近代軍でないとこのような軍さは出来ない。やはり疑問は残る。

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