作品の閲覧

「800字文学館」

トミーと呼ばれたサムライ

清水 勝

 1860年6月米国、「いまアメリカ中で一番の人気者、その名はトミー」と紹介されるや、トミー、トミーという声があがり、大興奮の中で合唱が始まった。

♪♪ 奥方もお嬢も夢中で取り巻く Wives and maids by scores are flocking
小さいけれども いかす若者 Round that charming, little man,
その名はトミー 陽気なトミー Known as Tommy, witty tommy,
日本から来た  黄色いトミー Yellow Tommy, From Japan

『万延元年のポルカ』(遊佐京平著) P276より

 このトミーとは、日米通商条約批准のために米海軍「ポーハタン号」に乗船してアメリカにやってきた通訳見習い立石斧次郎(16歳)である。
 正使外国奉行新見正興をはじめ77名の使節団員は、武士作法に則り慇懃な態度で喜怒哀楽を示すことはなかった。そんな中で、船員に気軽に話しかけるトミーは人気者になり、「英語を話せる若くて明るいサムライがいる」と米国内に報道されていた。
 侍姿の使節団はアメリカ各地で大歓迎を受けたが、とりわけトミーを目当てに婦人たちが集まり大変な騒ぎとなった。
 ニューヨークのパレードでは、女性から貰ったハンカチを群衆に向かって振ったり、投げキスをする様子が、更に人気を煽った。記者のインタビューには「丁髷をやめて海軍士官学校に入り、美しいヤンキー女性と結婚したい」とリップサービスも忘れなかった。
 帰国後のトミーは幕末・維新の流れの中で波乱の生き方を強いられた。幕府の通詞、歩兵頭並、そして官軍が日光を攻める戦いに幕府軍として応戦し、大怪我をして仙台に逃れた。塩釜港からフランス船で武器調達のため上海に渡り、そこでパリ万博から急遽帰国する渋沢栄一に出会い、武器調達はもはや無意味だと諭された。
 日本に戻ると幕府は崩壊しており、やむなく長野桂次郎と名を変え金沢の英語学校で教諭に就いた。その後、岩倉使節団には彼の英語力が必要とされ、通訳として再びアメリカへ向かった。ただ、船中で5人の女子留学生に気軽に話し掛けたがために船上裁判となり、無罪とはいえトミーとしての振る舞いが制限された。
 12年振りのアメリカは冷静で、トミーとして歓迎されることはなかった。
 その後の長野桂次郎は、官軍と戦ったことが災いし出世から見放され、北海道開拓使、ハワイ在住の移民監督官、大阪控訴院通訳を務め、73歳の生涯を終えた。

〈参考文献〉・『海を渡った侍たち』 石川栄吉著 読売新聞社
      ・『万延元年のポルカ』 遊佐京平著 パンリサーチ
      ・『異形の維新史』 野口武彦著 草思社
      ・万延元年遺米使節 子孫の会HP http://1860-kenbei-shisetsu.org/

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧