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「800字文学館」

清澄庭園

安藤 晃二

 初夏の深川を歩き清澄庭園に至る。この回遊式林泉庭園の新樹の美しさ、萌え立つ凄まじいばかりの楠の迫力と香りに感動する。池の端に自然石が並び、湖面遥かには数寄屋造りの楼閣「涼亭」が浮かぶ。目が醒めるばかりの風情である。
 この地は享保年間に下総国関宿藩主、久世大和守の下屋敷となる。明治初頭には岩崎彌太郎が購入、庭園部分二万坪を二代彌之助の時代までかけて造園を完成させた。岩崎家は後に庭園を東京市に寄贈、清澄庭園として現在に伝わる。

 少年時代、私は関宿から一里程の町に住み、小学生達は、関宿までよく遠足をした。目的地は権現堂堤の終点にある公園、そこで弁当を広げる。利根川の奔流に現れる渦と、江戸川への分岐点にある水閘門の非日常的な光景に興奮する。関宿藩の歴史など知る由もなかったが、治水の要衝の地に江戸幕府は五万石級の大名を配し、歴代ニ十二名の藩主の中、九名が幕府老中職に就いたとは驚きである。

 その頃大人達の話から関宿に鈴木貫太郎氏の私邸がある事を聞いた。終戦時の総理大臣である。昭和天皇の信任厚く、終戦を取り仕切った。日露戦争出征、海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長、枢密院議長、侍従長を歴任する中、ニ・ニ六事件、終戦前夜の宮城事件で、九死に一生を得ている。ルーズベルト大統領の死去に際し、鈴木は同盟通信の短波放送で弔電を送る。「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦況にあるのは亡き大統領の優れた指導の故である。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えない。我々もまたアメリカの覇権主義に対し今まで以上に強く戦う」と世界に発信した。
 欧米メディアは日本の騎士道精神を高く評価した。口汚く罵ったヒトラーの反応とは対照的であった。鈴木貫太郎氏の祖先は、和泉国(現堺市)にある関宿藩の飛地の領地の代官の家柄であったという。

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