行乞記
「俳句は日記」と言ったのは大正・昭和の俳人、種田山頭火。その山頭火の代表的な句「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」を読むと、山頭火にとっての日記は、愛憎、愚考や懺悔などを容れる器なのだろうと思い知る。人に見られる前に焼いてしまえば一握りの灰になってしまう。遺された日記『行乞記』には、以下の記述(1932年7月10日付け)があった。
――ほんとうによくふると、けさはおもつた、頭痛がしてぼんやりしてゐた。
夢精! きまりわるいけれど事実だから仕方がない、もつともそれだけ vital force が残つてるのだらう!――
10代中頃から俳句に親しみ、28歳から「山頭火」を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始する。俳句を本格的に学び始め、俳句誌に掲載されるようになったのは31歳の時だった。その実力が認められ俳句誌の撰者にもなったが、実家の倒産、貧困、過度の飲酒、離婚等の苦労の末に自殺未遂にまで追い込まれた。
やがて縁あって42歳で出家する。句作への思いが募ると、法衣と笠を纏い、鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと旅立つ。この行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅は7年間も続くことになり、その中で多くの歌が生まれる。最初に向かったのは宮崎、大分。九州山地を進む旅の始めの興奮を句に詠んでいる。
― 分け入っても分け入っても青い山
― こころ疲れて山が海が美しすぎる
1930年、山頭火48歳の時に、思うところがあって過去の日記を全て燃やしてしまうのだった。その際に読んだのが前述の「焼き捨てて」の句。
季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自らの心に湧いて来るリズム感を重んじる「自由律俳句」を多く詠んだ。
― ついてくる犬よおまへも宿なしか
― 泊めてくれない村のしぐれを歩く
「旅と酒を愛した昭和の芭蕉」とも言われた山頭火の日記『行乞記』は、焼き捨てられなかったからこそ、現在の読者に《作者の心の内面をさらけ出して》訴えかけてくるのだ。