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「800字文学館」

エスカレーターの片側空け

三 春

 足腰に自信のなくなったN先輩は、どこの駅にエレベーターやエスカレーターが設置されているかを熟知している。たとえ遠回りしてでも階段を使わずに済む経路を選ぶそうだ。現在の東京ではそれも十分に可能だろう。
 エレベーターは待たされるし少人数しか運べない。すぐ乗れて大量輸送できるエスカレーターの効率性には敵わない。この「効率化」を目的に英国で始まって世界に普及したルールが「エスカレーターでは急ぐ人のために片側を空けよう」である。
 片側空けが初めて出現したのは第二次大戦時のロンドンの地下鉄だといわれる。戦時体制下で効率向上が求められた時期だ。
 日本で初めてエスカレーターを設置したのは日本橋の三越呉服店、1914年のことである。片側空けが始まったのは60年代高度経済成長期、大阪万博で賑わう阪神電鉄梅田駅だ。80年代バブル期には東京でも広まった。
 しかし最近は安全のために片側空けを全面廃止して「立って二列」にすべきだとの意見が定着しつつある。だが実際には守られる気配など更々ない。つい先日も、歩かないようにという掲示に従って右側に立っていたら、後ろから来たオジサンにどやされて不愉快な思いをした。転倒や接触の事故は年々確かに増えてはいる。ただ、それらの事故はマナー違反やメンテナンス不備によることが多い。
 かつて自分も味わったラッシュ時の殺気立った様子を思い出せば、今の日本で片側空けを一律に廃止するのは無理だろう。人がホームに溢れて線路に転落する恐れさえある。かといって漫然と片側空けを続けるのも能がない。
 増設には費用と時間とスペースが必要だ。となれば即効の解決策は時間帯と場所による使い分けか。ラッシュ時には片側空けで、急ぐ必要のない場所や昼間には「立って二列」とする。時差出勤を広めることも効果的だろう。

 ところで、最後に水を差すようで気が引けるが……、効率や利便性が増せば増すほど体力と思考力が衰えていくのは私だけだろうか。

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