お金と「おにぎり」
お金の話をするのは、卑しいことだいわれていた。この世で生活して行く上で、必要不可欠なものであるのに、どうしてだろうか。お金には三つの機能がある。価値の大きさを示す尺度の役割、交換手段それと貯蓄する機能である。
確かに、お金がすべての問題を解決するわけでないし、何よりもお金で買える物やサービスがそこに存在してこそ価値があるのはいうまでもない。無人島にたどり着いたとき、いくらお金を持っていても生きては行けない。
『北越雪譜』という本を読書会で読んだ。江戸時代に雪深い国の人たちが、いかに雪に悩ませられながら、過酷な生活を強いられていたかを描いたもので、その中に次のような挿話があった。
農夫が行商人と、雪深い山道を歩いていた。それまで晴れていた天候が一変して、雪が降りはじめ猛吹雪になった。二人は地吹雪の中、雪をこぎつつ歩んでいた。
そのうちに商人は空腹でたまらなくなり、寒さにも耐えられなくなってきた。商人は農夫が焼きおにぎりを二つ持っているのをそれまでの会話から知っていたので、600文で売ってくれないかと頼んだ。600文といえば農夫にとっては大金だ。そば一杯がおよそ16文という時代である。そこで、農夫は焼きおにぎりを売ることにし、手に入れた商人はこれを喰らい、腹が満たされて体力も回復した。
吹雪は益々激しくなる。農夫はだんだん遅れだす。やむなく商人は一人で歩を進め、やっとのことで人家にたどりつき命拾いをする。一方の農夫は凍え死んでしまう。
商人は後日、私はお金のお蔭で命拾いができたと語ったという。
しかし、本当に命を救ったのはお金なのだろうか。お握りなのではないのか。目の前の大金に惑わされて大切な物を手放してしまった方が悪いという教訓を得るべきなのか。
こんな話を読んでも、心に浮かんでくるのは正直なところ次の言葉だ。
「それにつけても、お金の欲しさよ」
やはり、自分が卑しい人間であるからなのだろうか。
注:「それにつけても……」は室町時代の連歌師、山崎宗鑑が、どんな上の句にもつながる下の句として作ったといわれている。