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「800字文学館」

院内銀山繁盛―門屋養安日記

大月 和彦

 慶長年間に発見され、江戸時代には国内有数の銀山だった出羽院内は、天保年間には人口3,400人を数える大鉱山町として繁栄した。明治中期には産銀量日本一を誇ったが、その後衰退し昭和29に閉山した。現在は人が住まない山林になっている。

 銀山の最盛期天保年間に、山奉行の手代として秋田藩から二人扶持で抱えられた医師*門屋養安は、銀山住民の医療を担当するとともに役人として鉱山の運営にも関わった。同時に藩の許可を得て宿屋を経営するほか製錬に必要な木炭の流通に係わるなどを銀山町で顔役的な存在だった。
 交際範囲は広く、藩の勘定奉行・山奉行や支配人・手代・金名子・大工・掘子、出入りの農民・町人や旅廻りの芸人にまで及んでいた。
 6年から明治2年までの35年間克明な日記を書き残した。
 日記は、養安自身の家族や身の回りのことをはじめ藩役人の動静や付き合い、銀の生産高や坑道のこと、犯罪取り締まりなど役人の仕事のほか、町の行事、寺社の祭事、宿泊客、治療活動など多岐にわたっている。

 養安自筆の日記32冊は、(財)民族芸術研究所の茶谷十六・松岡精の両氏が解読・翻刻し、1997年に『近世庶民生活史料 未刊日記集成 門屋養安日記 上・下巻 茶谷十六 松岡精編』として三一書房から刊行された。
 200余年昔の鉱山町の賑わいや世相がいきいきと描かれている。

 日記は、天保6年乙未 6月9日の条
 「酉 天気よし
  屋形様(藩主)より金燈籠御弐、山神様江御奉納被成置候。御手代役人、金名子、表御番所迄御出迎、御着直々御祈祷有之候。八つ時頃、新庄姥さま・おやす・おすや…三人御祭礼見物に罷越申候。」で始まり、
 明治2年12月31日の条
 「大晦日 卯 何も不降、
 一屠蘇、大久保(医者)年番。自分 九人(金名子、手代など)
 一歳暮御祝儀、酒弐升、保田(塩サケ)壱本、大久保両名にて差上候。

門ト口に足踏みもなき大晦日
立春や御降りかけて春の雨」

で終わっている。

* 門屋養安(寛4年・1792~明治6年・1873)

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