シーボルトの娘 イネ
オランダ商館付医官シーボルトは、特別の許可を得て長崎「鳴滝塾」で医療と臨床教育を行っていた。私的には遊女お滝を引き取り、やがて娘イネが生まれる(1827年)。
イネが2歳の時にシーボルト事件が起こり、シーボルトは国外追放・再渡航禁止の処分を受けた。日本を去るに際し、母子の生活を門弟に託した。
その後、物心が付いたイネは、混血児ゆえに普通の女性と同じような生き方は出来ないと考え、父の跡を継ぐべく医学を志した。
シーボルトの高弟であった二宮敬作は14歳のイネを愛媛県宇和町に呼び寄せ、医師としての能力を授けた。さらに女性であるイネには、出産に絡んだ医療を身に付けさせたいと、シーボルトの弟子仲間であった備前の産科医石井宗謙のもとに派遣した。
宗謙の指導で6年目に入った時に不快な出来事が起こった。宗謙は美しいイネを手籠めにし、妊娠させてしまったのだ。
師として尊敬していた宗謙の裏切りにイネは宗謙を恨んだ。堕胎も考えたが産科医として貴重な機会だと考え直した。憎らしい宗謙の家から離れ、子を産む全過程を人に頼らず自らの身で体験し、学んだ。
そして1859年、国外追放令が解除されて父シーボルトが再来日し、30年振りに母子ともども再会を喜んだ。同行してきた異母弟の長男アレクサンダーは幕府・明治政府の外交に携わることになり、さらに後年には次男ハインリッヒも来日した。この二人の義弟の支援を受け我が国最初の産婦人科を東京築地に開業した(明治4年)。
明治8年に医師の国家試験が始まり、明治18年からは女性の受験も認められるようになったが、イネは高齢で受験せず、その後は助産婦として再出発する。明治36年に77歳の生涯を閉じた。
イネは幕末から明治にかけての激しい時代の中で、開国前に混血児として生まれ、偉大な父を誇りに思い、医学に挑んだ。そして何よりも未婚の母として強く生き抜いた姿勢は、時代を越えて女性の強さを今に示している。