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「800字文学館」

燧裏林道

新田 由紀子

 高層湿原で名高い尾瀬ヶ原の東端にそびえるのは燧ヶ岳だ。その優美な山容は、西端の至仏山と共に日本百名山にあげられている。
 燧裏林道は燧ヶ岳の御池登山口から北山麓を回って段吉新道に入り、尾瀬ヶ原に至る。標高1400mから1600mの間を上下して、尾瀬ヶ原北東の赤田代まで約8キロ、3時間。森に点在する湿原や池塘を木道がつなぎ、木の根や大岩をまたいでいくつもの沢を渡る。本格的なハイキングルートだ。
 この秋もはるかな尾瀬の燧裏の風に呼ばれた。
 早朝の電車と急行バスを乗り継いでも、尾瀬御池に着くのは11時を過ぎる。熊遭遇も怖いので、人通りのあるうちに赤田代の温泉小屋に着きたい。身支度もそこそこに御池田代の湿原から田代坂を登る。姫田代からさらに上田代まで。一気に展望が広がり燧ヶ岳の頂上が顔を出す。右手には会津、越後の山々が連なり、平ヶ岳、会津駒ケ岳も目の前だ。
 樹林や沢を越えるたびに、横田代、ノメリ田代、西田代とさまざまな湿原と池塘が現れる。水が空を映し、咲残りの野花がゆれる。このルートのハイライトだ。1時、枯れ沢にかかる燧裏橋に着いて昼休憩。
 この先は森が深い。熊やイノシシ、蛇や蜂には会いたくない。熊鈴をつけて、エッサコラサと声を出して行く。段吉新道に入るころにはすれ違う人も途絶えた。持病の膝も痛み出す。平坦な木道が続くかと思うと、沢を挟んで転げ落ちそうな泥んこ道が上下する。繰り返すうちに、熊などどうでも良くなった。ランナーズハイとか、トランス状態とかいうものか。ゴールをイメージして足元だけに集中する。
 森が開けてくると、赤田代の草原に出た。尾瀬ヶ原だ。2時45分到着。トイレと休憩所があり、山小屋が二軒並んでいる。小屋の脇に流れ出る温泉で登山靴の泥を落とし、缶ビールとカップ酒を買うと、部屋に通って座り込む。疲れた体とは裏腹に頭の中は快く清々しい。
 部屋の窓からは草紅葉の向こうに青紫色にかすむ至仏山が優しい姿を見せていた。

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