マーラーのアダージェット―「ベニスに死す」
先日バイエルン国立管弦楽団(指揮ペトレンコ)によるマーラーの交響曲第5番を聴いた。全体的に明るめの演奏だった。有名な第4楽章アダ―ジェットは、耽美的ながら平穏な心をかき乱すトーンを含み、また滅び行くものへの哀悼の意を表しているかのようだ。聴きながら思いは映画「ベニスに死す」に及んでいた。初老の作曲家が保養のためにヴェネツィアを訪れる。舞台はリド島の豪華なホテルと海水浴場。同じホテルにポーランドの貴族一家が滞在中。作曲家はその中の美少年タジオに引き付けられて島を去る機会を失い、コレラに罹って斃れてしまう。要所にアダージェットが流れる。
ヴェネツィアは何度か訪ねた。世界に類を見ないこの街には、深い思い入れと様々な思い出がある、アダージェットに関連することを次に。
ある時サンティ・ジョヴァンニ・エ・パウロ教会を見学した。前庭にルネサンス彫像の傑作コッレオー二騎馬像が建つ。これを眺めて去る時に、印象的な光景を目にした。教会の隣は市立病院、脇の小運河に救急ボートが二艘並ぶ。小運河が海に開けているすぐ向こうに墓地専用のサン・ミケーレ島が望める。墓地は今や満杯になってしまったとか。
ヴェネツィアは死の影がちらつく一面を漂わす。昔ペストやコレラが流行した時は、特殊な環境故に多くの犠牲者が出た。病んだ娼婦が幽閉された所も残る。拷問部屋と二度と戻れない牢獄をつなぐ溜息の橋は昔のままだ。
街自体が老朽化してきた。ラグーナ(潟)にびっしり木の杭を打ち込み、大理石を積み重ねて基盤を造り、その上に今ある豪華な建築群が築かれた。地盤沈下はこの街の宿命だ。長い年月を経て街は沈み行くのだろうか。静かな夕暮れ時のヴェネツィアに、あのアダージェットがよく合う。
昼は、広場も通りも観光客で溢れている。地盤沈下に思いを及ぼす人はいるのだろうか。「ベニスに死す」を思い起こす人はいるだろうか。アダージェットは人々のざわめきにかき消されてしまう。