博多商人のしたたかさ
「え、こんなに小さいの」。同行のSさんが声をあげる。
志賀島にある「金印」の実物大のレプリカだ。一辺23三ミリの正方形で、
つまみを除く印台の厚さは9ミリ。箱に納められて金印公園の中に展示されている。公園の周囲には20枚ほどの棚田があるだけだ。自然に囲まれて益々小さく見える。
金印とは「漢委奴國王」の刻印のあるもので、江戸後期に島のお百姓甚兵衛さんが掘り当てたといわれる。だが当会九州支部・Kさんから頂いた資料によると少し違うらしい。実際の発見者は秀治、喜平の島民だそうだ。二人は甚兵衛の小作か何かで、田の溝を修理していると大きな石が出た。それを掘り除けたら光る物があったので甚兵衛に持ち込んだという。
その後種々のいきさつを経て、田の所有者の甚兵衛名で藩に届けたため彼が発見者になり黒田藩から白銀5枚が下賜された。何の貢献もない甚兵衛が丸儲けでいいのか。
私が思うに―― 発見者二人は内密に持ち去りたかった。これで酒一升くらいは買えそうだと踏んだ。ところが近くの田の作業者にこの騒ぎを知られてしまった。下手をすると仕事を失いかねず、泣く泣く甚兵衛に届けたことだろう。
一方恩賞を貰った甚兵衛はどうしたろう。二人に分けるどころか一枚を与えるのも惜しんだに違いない。それこそ一升ずつ与えて手なずけ、恩賞を独り占めしたとみる。そのうえ後世に名まで残すとは何という幸運な男か。
甚兵衛と藩庁との間を仲介したのが亀井南冥なる儒学者だ。この男、掘り出し物が後漢書にいう金印と見当をつけたがそれを秘し、15両で買い取る旨申し出た。渋る藩に、それでは百両で買おうと言ったことから怪しまれて、企みが露見したという。
結局得をしたのは黒田藩、白銀5枚で将来の国宝を手中にした。黒田藩は、黒田節の母里太兵衛も福島正則公から名槍「日本号」をただでせしめている。金印とこの槍が福岡市博物館の目玉である。さすがは博多商人の血筋ではないか。