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「800字文学館」

フライングタイガーズ

安藤 晃二

 三十年程前、投資先であるメキシコの建機部品工場の経営に関わった。この工場はイリノイの世界的な建機メーカーC社向けに製品を供給した。C社のライバルは、今尚世界市場で覇権を二分する日本のK社である。時折緊急発注が購買から来る。「ブルドーザの車輪を繋ぐボギー部品を三本、今日中に夕方のフライングタイガーに載せてくれ、営業の要求はいつもこれだ。しかし、Kには負けられない、ブルは一台数十万ドルの商売だ」、声が弾んでいる。「フライングタイガー」、我が米人幹部達もニコニコする。輸送機の愛称らしいが何か曰くがありそうだ。 私はこの飛行機を見たことがない。荷物があれば、夜中にやって来て、翌朝にはイリノイの工場に製品を配達する。私にとっては幻の助っ人である。

 最近になりフライングタイガーズの歴史を知る。1941年12月、太平洋戦争開戦、真珠湾攻撃の10日後に、既に始まっていた日中戦争に米国よりコンノート退役将軍以下200人もの航空隊義勇軍AVG(American Volunteer Group)が展開する。蒋介石が昆明で率いる中華民国軍を助けて日本軍に多大な打撃を与えたと言う。この三編隊こそディズニー社の虎のロゴをつけたフライングタイガーズであった。双方100機程が出撃、米国側のCurtiss社製のP-40型機は頑健で、前方よりの攻撃に強く、高高度からのダイビング戦略により、ナカジマ、ミツビシの比較的軽量機を完膚なきまで叩きのめした。一年間の活動期間中、日本戦隊75機を撃墜、米国側の被害は15機のみであった。この戦いが真珠湾で打ちのめされた米空軍に大きな勇気と自信を与えることとなる。

 米国は対日開戦前かビルマに輸送した部品で戦闘機を組み立て、フライングタイガーズ戦隊の訓練に励む等、周到であった。ホワイトハウスがそれを承認した証拠がないので、きっとウィンクで黙認したに違いないという話も興味深い。蒋介石夫人宋美齢は上海の名家出身の三姉妹の末娘、姉の宋慶齢(孫文夫人)と共に少女期より米国に留学、かのウェルズレイリアン女子大卒である。蒋介石、コンノート司令官の連携を助ける事を含め、米中協力関係に大いに貢献したという。

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