作品の閲覧

「800字文学館」

春の足音

浜田 道雄

 冬至はまだ少しさきだというある日、河津町で桜が咲いたとテレビが報じた。あの町の桜祭りは二月だというのに、である。祭りまでに花の盛りが過ぎてしまうのではないかと、町の人々は心配しているという。
 その数日後、熱海を訪れた友人と久しぶりに梅園まで足を伸ばした。すると、入り口近くのいくつかの梅の木には一輪、二輪と花がついている。これまでこんなに早く梅が咲くのは見たことがない。梅祭りは一月初旬だから、これも少々早い開花である。
 だが何はともあれ、これから寒さも厳しくなるというこのごろだから、こんな春の先がけを見つけると心が弾む。

 いまの住まいを手に入れたのはかれこれ三十年近く前の一月中旬だった。新聞広告で見たこの住まいに心惹かれて、冬の熱海をのぞいてみるのもいいかと出かけてきた。
 熱海では糸川沿いの桜が満開で、花の溢れた枝の間をウグイスらしい小鳥が飛び交っていた。そうか、梅にウグイスというが、熱海は暖かな温泉町だから桜にウグイスなんだ。歳をとったらこんな街に住むのもいいかなと思った。そして、この住まいを即決で手に入れたのだった。

 その後、満開の桜の間を飛び交っていた小鳥はウグイスではなく、メジロだと知ったが、だからといって小鳥に騙されたなどとは思わない。どちらにしろ、あの小鳥たちは花とともに私たちをこの街に誘った心優しい使者だったのだから。
 以来、この住まいは私たちのセカンド・ハウスとしてだけでなく、友人たちが集まり、夏の海、冬の湯浴みを楽しむ場ともなった。
 そして数年前、手に入れたときの思いの通りに私たち夫婦は熱海で老いを養うことにしたのだ。

 ここに移ってしばらくして家内が逝き、毎日の散歩は私一人になったが、歩くところはやはり糸川であり梅園だ。その梅園は今年随分と早い春の知らせを届けてくれた。
 そんな春の足音に心が躍ったのだろうか、しばらく出さなかった賀状を書いて、友人達に近況を知らせようかと思う。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧