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「800字文学館」

六年目の模索

首藤 静夫

年暮れぬ笠きて草鞋はきながら芭蕉
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり
行く春を近江の人と惜しみける
 芭蕉の句は詩情豊かで、やさしい心も伝わってくる。旅を人生の友とした芭蕉に旅の句が多いのは当然だが物見遊山ではない。求道の旅だった。

是がまあ終の栖か雪五尺一茶
うれしさも中くらひなりおらがはる
雪とけて村一ぱいの子どもかな
 一茶は、江戸で夢破れ、故郷の信州・柏原に帰る。継母や異母弟と家産のことで骨肉の諍いをし、さらに妻や子に幾度も先立たれた。その苦しさが句の根底にある。飾り気のない、それでいて切実な句が多い。

どうしようもない私が歩いている山頭火
分け入つても分け入つても青い山
笠へぽつとり椿だつた
 孤独な山頭火、無季不定型のその句は魂の叫びそのものだ。これは旅という生やさしいものではない。彷徨である。

 揚句のいずれにも作者の人生が張りついている。しかも大変厳しい人生だ。彼らの後にも、人生を真正面から謳いあげた句は少なからずある。貧窮の中での弱者への愛、病苦、戦死したわが子、思想弾圧下のもがきなど、それぞれの時代とともに作者の生き方がほの見える。

 一方、和歌以来の花鳥諷詠と伝統美を重んじる俳句は益々盛んである。ある意味で言葉の遊びと化している。洒落た措辞、気取った措辞、耳目を驚かす表現など技巧的な句も多い。平和な時代の微温的雰囲気の中で作るのだからやむを得ないとも言える。
 俳句を始めて五年、自分の句もこの類で、形はともかく中身が味気ない。心情や感動をもう少し投影できればいいのだが、メンタリティが乏しいのは何ともならぬ。
 思えば四季の変化も希薄になった。待ち遠しかった花々がその季を待たずにあっさり咲き始め、或いは花屋の店頭に並ぶ。折々の行事も材料がスーパーで間に合うようになった。自然も生活スタイルも変わる中で俳句だけが伝統美、伝統形式と有難がっていいのだろうか、六年目の模索が始まっている。

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