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「800字文学館」

運転と手旗

浜田 道雄

 伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記」に、英国では横断歩道を渡る人がいると一旦停止しないと訴えられるから必ず車を止める。そのとき運転者は窓から腕を出して上下にヒラヒラと振って合図するとある。それを読んでタイでのある経験を思い出した。

 一九七〇年代のはじめバンコクで大使館勤務をはじめたときのことである。運転免許証は取って行けというアドバイスがあったものの、私たち夫婦は出発準備の忙しさもあって二人とも取れないままで赴任した。
 それで、家内はバンコクに落ち着くとすぐに教習所に通った。そんなある日家内が家で右手を水平に伸ばし、次にそれを頭の上まで曲げて手のひらを動かしている。「何をしているんだ」と聞くと、
「右手を伸ばすのは右折れするよっていう合図。上にあげて曲げるのは左折れ。それから右手を伸ばしてヒラヒラさせるとブレーキかけるって合図なのよ。タイの交通ルールなんだって」
という。

 そのころバンコクを走る車は金持ちのもつメルセデス以外は相当な年代物が多く、整備不良車も少なくなかった。タクシーなどはブレーキランプが点かないのがザラだったから、運転する人は前を走る車のランプなど全く信用せず、互いに手を出して合図しあうのだと知って、タイの人の知恵に感心したものである。
 だが伊丹さんのこの話からすると、手旗はタイの人々が生み出した知恵ではなく英国由来なのかもしれない。そう気づいて少々がっかりさせられた。

 ところで、家内はこんな手旗の練習をしながらも二週間ほどして見事に免許証を手にした。私の方は運転を習いに行く時間などなかったから、大使館の職員と相談して警察署で試験を受けることにした。そして多少の曲折はあったものの、やはり無事にタイの免許証を手に入れた。

 以来半世紀、私の車の運転は事故もなく無事に過ごしてきたのだが、今年免許証を更新しなかった。目が悪くなり、夜車を走らせるのは危ないと思うようなったからである。

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