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「800字文学館」

四十過ぎたら自分の顔

浜田 道雄

 子供のころ母親からよく「男は四十になったら自分の顔になるんだよ」といわれた。四十歳までは親からもらった顔だが、そのころになるとそれまでの生き方が容貌に表れる。だからしっかり自分を鍛え、真面目に正直に人生を生きねばならないという諭しだった。

 そんな話を聞かされた後など、自分の顔がどうなっているか気になって鏡をのぞいて見たりした。この間宿題をしないで先生に叱られたから不真面目な顔になっていないかとか、欲しいものを買ってもらえなかったときには不満そうな顔をしていないかとか気になったのだ。

 子供のころからの顔は写真が残っているので、確かめるのは難しくない。小学校のときの写真は学芸会のもので、緊張していたからか意外と凛々しい顏をしている。中学、高校のころのものは受験票に貼ったやつだ。緊張もしているが、心配げな表情をしている。試験に自信がなかったからだろう。
 社会に出てからの顔には、気に入ったものはほとんどない。友達との旅行写真などもあるが、外交旅券、公用旅券や一般旅券など十冊にあまる旅券に貼られた写真などでは、ろくな顔をしていない。ちょっと気張った、厳つい顔だ。それにどう甘く見ても「モテる」顔ではなかった。

 ところが問題の四十歳になったころには、自分の顔などまったく気にしなくなっていた。気に入った仕事をしていたし、いい家族とともにほどほどの生活もしていたから、自分の人生にそれなりに自信をもっていたのだろうか。どんな顔でもいいではないかと思うようになっていたのだ。そのせいか、そのころの自分の顔写真などはほとんどない。

 先日しばらくぶりに鏡のなかの自分をシゲシゲと眺めてみた。そこにはそんなに年寄り臭くはないが、まぎれもない老人の顔があった。これが自分の人生の行き着いたところの顔なのだ。これが母親のいっていた「自分の顏」なのだと思った。
 いい顔なのか、嫌な顔なのか、それはわからない。嫌だといったところで取り変えられるわけじゃないんだから。

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