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「800字文学館」

高尾山と精神修養

大津 隆文

 私が大好きな高尾山には様々な魅力があるが、一つ問題なのは魅力があるだけに同好のハイカーが少なくないことだ。つまり混雑である。私が出かけるのは原則平日で、しかも、なるべく空いていそうなコースを選んでいる。それでもシーズンともなれば、狭い山道で次々と人に出会うことは避けられない。
 前から人が来たらどちらが譲るか、気の弱い私はチキンゲームは苦手なので、ほぼ百パーセント先に道を譲っている。また、山歩きの先輩から、山道では登りが優先、と聞いたことがあるが、高尾山では下りの方がどんどん先に下りて来て、登りが待たされることが通常だ。なお、興味深いのはこうした状況も混雑度の関数であることだ。人が少ない時にはお互いに立ち止まって道を譲り合うことが少なくない。
 道を譲って立っていると、「すみません」「ありがとう」と言って通り過ぎる人が大部分だが、一~二割は無視していく人がいる。そうなると悲しいことに私の心に波風が立つのだ。「無礼者!」と言う程のことではないが、「ユーアーウェルカム」とか「チョンマネヨ(韓国語で「どういたしまして」)」と嫌みを呟いている自分に気付く。
 しかし、折角自然を楽しもうと山へ来たのにそんな些事で心を乱されるのは情けないことだ。自分から譲っておいてお礼を求める気持ちが問題であり、ここを克服しなければいけない。仏教には「布施」という言葉があるが、そういう気持ちで道を譲るべきではないか。そこで、最近では、無視された時には「フセ、フセ」と呟くことにしている。
 しかし、待てよ、と新たな疑念が生じてきた。布施というのも功徳を積めば極楽へ行けるという反対給付を期待しているのではないか。そもそも「自分は善いことをしている」と思う気持ちが問題ではないか、むしろ「善いことが出来ること」に感謝すべきではないか、いやいや「善悪の意識、自他の意識」を越えるべきではないか、迷いは深まるばかりである。

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