私の原風景
何でも書こう会では、ときおり故郷を題材にしたエッセイが披露され、幼いころ過ごされた地方の豊かな自然や産品が、懐かしくまた誇らしげに語られる。
〽ウサギ追いしかの山 コブナ釣りしかの川
まことに羨ましいことであるが、根っからの東京育ちの私には、残念ながら故郷の山や川という実態がない。
〽菜の花畑に入日うすれ 見渡す山の端かすみ深し
好きな歌詞なのだが、体験とは結びつかないし、今でも郊外の畑を見て、何が植えてあるのか、ネギ以外はほとんど見分けがつかない。
戦争末期、私が生まれた翌日の夜から次の日は東京大空襲で、産褥にあった母は窓の外に真っ赤な炎が迫りくるのを見たという。そんな私が物心ついて目にしたのはなんだったのだろうか。省線電車の駅で白い服を着た傷痍軍人がアコーディオンを弾きながら、金盥の前で頭を下げていたことだとか、毎朝父が会社に行く都電がいつも超満員で、ドアにしがみついた人がこぼれ落ちそうだったことだとか、あるいは進駐軍のMPがジープで通りかかったとか、そういったことが断片的に記憶に残っている。
このような思い出をたどっていくと、漠然と瞼に浮かんでくるひとつの原風景は焼け跡である。たとえば現在の地下鉄後楽園駅に続く中央大学のキャンパスは、昔は陸軍の練兵場で、私の子供のころは何もないただの焼け野原、そんなところが私たちの遊び場だったし、ほかにもアチコチに焼け跡が点在していた。今から思うと昭和二十年代後半から三十年前後、戦後復興が一息ついたころの東京だったのか。その頃を歌った宮城まり子の『ガード下の靴磨き』や、美空ひばりの『東京キッド』『わたしは街の子』などを聴くと、思わず目頭が熱くなるのを禁じえない。
その後東京はオリンピックや高度成長を経て、ガラスと鉄とコンクリートの大都会に変貌し、荒廃した焼け跡など写真でしか見られなくなってしまったが、でも散歩のときなど、フト現風景が原風景と重なって見えることがある。