タム・ブン ー徳を積むー
東南アジア大陸部の諸国、タイ、ラオス、カンボジア、ミャンマーとインド亜大陸に接するスリランカに住む人々は敬虔な仏教徒として知られている。だが、彼らの信仰は私たち日本の人々の仏教とは大きく異なっている。
彼らの仏教は上座部仏教と呼ばれるもので、僧侶はただ自分の悟りのために修行を続け、修行生活に必要なものは世俗の人々からの喜捨に頼っている。だからこれらの国々では、人々が朝早くから食べ物や日用品を用意して、托鉢に来る僧侶たちに布施するのを見ることができる。しかし、僧たちは黙ってその喜捨を受け、感謝することはない。人々が捨てたものを拾うのだと考えているからだ。
一方、世俗の人たちは、修行に打ち込む僧侶たちに布施することによって自分たちの「徳を積む」機会が与えられたと思い、その機会を与えてくれた僧たちに感謝して礼拝する。
日本でも禅宗の僧侶は托鉢をするが、それは修行の一環であり日々の食を得るためのものではない。
この「徳を積む」という行為は、仏教の考え方にある「輪廻」を信じることに関わっている。人は生まれ死に、そしてまた生まれ変わるが、来世はその人のもつ徳に応じて六道のいずれかに生まれるという信仰である。人々は僧侶に布施することなどによってこの世で多くの徳を積み、来世にはよりよい世に生まれ変わりたいと願うのである。
ところで、この徳を積むことをタイ語では「タム・ブン」という。「ブン」とは善行とか徳を意味するが、この言葉は私たちの日本語のなかにもそのまま生きている。「分限者」や「分をわきまえる」の「分」だ。「分限者」は徳をたくさん持っている人のことであり、それが転じて金持ちの意になった。どちらも、もとはサンスクリットやパーリ語からきている言葉である。
日本の仏教徒は自らを大乗と呼んで東南アジアの仏教を小乗と貶すが、こんなところから、どちらももとは同じブッダの教えなのだと知ることができるのである。