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「800字文学館」

『方丈記』と無常について(「何でも読もう会」余滴)

斉藤 征雄

 有名な『方丈記』の序章は、無常を詠嘆的に表現している。一切のものは生滅、流転して変化すると。
 続いて、体験した自然や社会の事件を極めて精緻に描写して、無常の世の住みにくさとはかなさを論証する。

 長明は、貴族社会の中で才能ある知識層の一人だった。しかし家柄に恵まれず、望んでいた下鴨河合社の禰宜の地位を同族に奪われたことを契機に、家を捨て遁世する。実態は半僧半俗で「おのれの好きに生きる」生活だった。
 山奥に、方丈の庵を結ぶ。
 庵には阿弥陀仏や菩薩の絵像、和歌の本、琴と琵琶のみ。気が向けば経を読み、気が進まなければ歌を詠んだり琵琶を弾奏する。山野を散策し春夏秋冬の自然を楽しむ。長生きをしようとも、早く死にたいとも思わない。このような生活の味わいを「閑居の気味」と言い、その楽しさはやってみなければわからないと誇る。
 しかし、その生活に安住することはできなかった。姿だけ僧になって心は汚れに染まった生活は、往生の妨げではないか。そのように自問したとき何も答えられず、ただ念仏を二、三べん称えるのみと言って『方丈記』は終わる。

 長明の思いはどこにあったのだろうか。遁世しながら俗世に執着する自己の矛盾を止揚して、仏道に帰依して生きる意志を固めたとする解釈があるが、私にはそうは思われない。 最後に自己の矛盾を告白して絶句する割には、あまり深刻さが感じられないからだ。結局、葛藤はあったが「好きに生きる」ことを捨てられず、そこに自己の真実を見たのではないかと思う。
 同時に長明にとって、仏教的無常観は苦悩を伴うほどのものではなかったと思う。それは多くの日本人に共通する感覚でもあった。
 出家遁世しても現世に執着してしまう矛盾した自己、そうした人間が、無常の世に生きる一つの生き方を示したのが『方丈記』なのだろう。江戸時代以降、日本人に広く読まれてきたのは、そんな長明のいい加減さが受けているのかもしれない。「いい加減」は「良い加減」なのだ。

【注】下鴨河合社:しもがもただすのやしろ。下鴨神社の摂社

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