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「800字文学館」

松にまつわる話

内藤 真理子

 我家の隣家には、色艶の良い立派な赤松があった。春と秋には松専門の植木職人が来る。その度に隣の奥さんは一升瓶を用意していた。
 職人は日本酒を片手に松の天辺に上り、酒を口に含み、それを吹きかけながら天辺から順に剪定していく。全部終わるまで三四日はかかっていた。
 我家には黒松がある。やはり見越しの松ではあるが、比べようがないほど小さい。義父、義母は隣の松を見上げながら、いつも「赤松のある家はかかあ天下なのだ」と陰口をきいていた。ちなみに我家の黒松は、他の庭木といっしょくたに近所の植木屋が手入れをしていた。

 時は移り、隣は売却され、松も伐られた。
 我家は夫が定年になり、暇なので植木屋は断った。夫はなかなか上手い。だが、松だけは勝手が違う。特に春の手入れが難しい。
 夫が松の木に上ったので私は「古い葉っぱは全部取ってしまうのよ」と声をかけた。植木屋のやる事を常日頃見てきたので当然のアドバイスだった。ところが、夫は完全無視!「女の言う事なんぞ聞く耳もたん!」と背中が言っている。
 ムムッ。私がこの家に嫁に来た時、植木屋が一人で庭木の手入れに一週間かかっていた。その後、義母が植木屋に「嫁が後始末はするから四日でやってちょうだい」と言い、私は植木屋の後について片付けをする羽目になった。
 あれから三十年。春の芽摘みの時期に、植木屋が松の天辺から順に芽を摘み、古い葉をゾリゾリとこそげ落し、余分な枝を剪定していくのを毎回見てきたのに……。

 夫が松に張りついていると道を通る人が見かねて教えてくれる。
「新芽はたいてい三本出ているから一番勢いの良いのをつまんで取ってしまい、二本残すのだよ」。「松の幹は、たわしでこすって古い皮を落とすんだ」とも。
 するとどうだろう。黒松のはずなのに赤い地肌が出て来た。
 エッ、うちの木はかかあ天下の赤松なの? そうと分かった私は、
「門前の小僧は習わぬ経を読むのよ!」と高らかに自己主張をした。

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