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「800字文学館」

法虎堂幻想

安藤 晃二

 大磯の「鴫立庵」は西行の和歌由来の地に、江戸期の俳諧人により西行を記念して建てられたものが今日まで続いている。その周りに残る幾つかの旧跡の一つに「法虎堂」がある。歴史上の事物が紡ぐ物語は興味が尽きない。

 この小さな御堂には、虎御前なる人物の彫像が収められ、あの江戸の遊郭吉原より寄進されたものだという。むべなるかな、今にその艶やかさが伝わる。当時大人気を博した歌舞伎の演目、「曽我もの」、この曽我物語に登場する人物が虎女であった。時代は遡り鎌倉幕府の初期、頼朝の家臣、曽我十郎・五郎兄弟による仇討ち事件が発生した。幕府重臣No.2の工藤祐経を親の仇と、夜陰に紛れて襲撃し討ち果たす。建久四年、頼朝が裾野において挙行した大々的な狩りの現場での出来事であった。当時の狩りは、今日の想像を絶する長期間に及び、その為に狩り用の屋敷まで用意され、それが「陣屋」の始りである。兄十郎はこのとき敵側により斬殺され、五郎は生還する。頼朝の審判は御前に毛皮を敷いて五郎を厚遇するものであったが、五郎自ら望んで死罪となる。

 十郎・五郎の菩提を弔い一生を終える女性がいた。その人こそ十郎の妾虎女である。十郎は自分が死んだ後を思い、互いに恋に落ちた遊女を妾としたと言われる。今日の平塚辺に遊女宿があった。
 虎女は兄弟の死後先ず彼等の母親を訪ね、箱根権現の別当により出家する。信濃善光寺に赴き二人の遺骨を奉納する。諸国霊場を巡りながら、十郎・五郎の物語を口伝により熱心に人々に伝えた。虎女は高良山(平塚)に庵を結び兄弟の供養に明け暮れ、六十三歳で他界する。曽我物語の顛末は「吾妻鏡」にも記されており、史実である事が定説となっている。

 虎女の出自については、母は平塚の遊女夜叉王で、父は都を逃れ、相模国海老名郷にいた宮内判官家永とされる。虎女は大磯の長者のもとで遊女となった。斯くして吉原と大磯の鴫立庵がつながるのである。

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