源三位頼政の生き様
先日国立能楽堂で修羅物「頼政」を観た。源頼政が以仁王(後白河天皇の皇子)を担ぎ出して権勢を誇る平家の打倒を図り、宇治橋の合戦で敗北し、平等院にて自害するに至る経緯が演じられる。諸国一見の僧が頼政の霊を弔い、成仏を祈る。頼政の辞世の句
埋木の 花咲くこともなかりしに 身のなるはては あはれなりけり
が印象に残った。ここで頼政の生き方を振り返って感想を述べてみたい。
頼政は保元・平治の乱に際して源氏の一系譜を保持し、平家全盛時代にも文武両道に秀でた人物として信頼を得ていた。ただ四位の地位に満足しておらず、その心情を歌に託す。
昇るべき たよりなき身は木の下に しいを拾いて 世をわたるかな
これが清盛の耳に達し、三位への昇進が叶えられた。ところが、清盛の次男宗盛との確執が身辺を変える。頼政の嫡子仲綱が所有していた名馬を宗盛が強引に取り上げ、焼き鏝を入れて突き返した。馬は武士の身代わりともいえる時代の事、この仕打ちに怒り狂った仲綱は、同じことを宗盛にやり返す。源氏と平家は反りが合わなかったのだ。平家物語はこれが宇治橋の合戦に繋がったと語る。
頼政は近衛天皇を苦しめた怪物鵺(ぬえ)を退治した武将として知られる。その功により獅子王と呼ばれる剣を下賜された。頼政得意満面の時だったろう。平家物語「鵺」の段の最後にこうある。「我が身三位にして……、さておわすべかりし人の、よしなき謀叛おこいて、宮をも失いまいらせ、我が身もほろびぬるこそうたてけれ」
頼政は自らを埋木と称した。確かに打倒平家の意図はあっさり潰された。計画が杜撰だったのだ。しかしこの時頼政は、以仁王の名を出して各地の源氏所縁の人々に平家打倒の檄をとばしており、頼朝が決起するきっかけを作った。その結果は周知の通り。歴史的にみると、埋木どころか重要な役を果たした人物に思えてくる。
源三位頼政の墓は平等院塔頭にひっそり佇んでいる。いつ訪ねても花が飾られている。