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「800字文学館」

梶田富五郎翁 『忘れられた日本人』(宮本常一)から

大月 和彦

 昭和25年、学術調査団の一員として対馬を訪れた民俗学者宮本常一は、島の南端豆酸(つつ)の浅藻(対馬市厳原)に、この村の開拓者が生き残っていると聞きその老人に会った。

 梶田富五郎82歳。菓子店を営む自宅で釣り道具を作っていた。「爺さんは山口県の久賀(周防大島)の生まれじゃそうなが、わしも久賀の東の西方の者でのう。なつかしうて訪ねてきたんじゃが……」梶田翁は目を細めて喜び、郷里の言葉丸出しで言った。「へえ、西方かいのう、ようここまで来んさったのう…はぁわしも久しう久賀へもいんで見んが、ずいぶん変んさっつろのう」と山口弁で話す。

 3歳の時両親に死なれた富五郎は、叔母の家に引き取られ、7歳の時「めしもらい」になった。「めしもらい」は親を亡くした子どもを漁船に乗せ漁を手伝わせながら漁師に育てる慣行で、海の事故で親を亡くす子が多かった当時、相互扶助による救済制度だった。

 対馬の海は魚で埋まっているという噂を聞いた久賀の漁師は、富五郎を乗せて博多や壱岐をまわって明治9九年対馬に着いた。対馬は武士の町で仕来りがやかましく、外来者には大変なところだったが、久賀の漁師はやっと浅藻の浦に住むことが許され、木を伐り土地を開いて納屋を建てた。漁のため船着き場を作ることから始めた。干潮時に海中の石のそばに船二艘をつけ、潜って藤蔓を石にかけて船に渡した丸太にくくる。満潮で浮いた船を沖に進めて石を落とす。一通りの苦労ではなかった。港ができるまで30年かかったという。

 当時周防大島からハワイへ出稼ぎが盛んだった。ハワイでは日当50銭、対馬では13銭だったが、富五郎はここで漁師として一生暮らすと決める。漁場は豊かで、獲った魚は厳原の問屋に売り、米、味噌、煙草などを仕入れた。親兄弟を呼び寄せた人もいて村は発展し、明治30年ごろは100戸になった。

 瀬戸内海の小島から魚を求めて対馬に渡り新しい村を拓いた富五郎、「はぁ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい……」と振り返る。

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