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「800字文学館」

K君のこと

首藤 静夫

 高橋和巳著『悲の器』を「何でも読もう会」で取り上げた。主人公は某国立大学の法学部長。彼の自宅に自治会副委員長が夜分に訪れ、学生運動に理解と協力を求める場面がある。この学生は就職先にマスコミを志望しているが、すでに2年失敗している。学生運動をしている場合ではないが、委員長が停学処分中なので副委員長の彼が頑張る他ないのだ。政治活動と就職活動の板挟みで苦しい胸中が、主人公との会話の中に垣間見える。二人の議論は激しいが、学生は節度をもって教授に接し、気難し屋の主人公も彼に好印象を持った――。

 半世紀前、学園紛争が全国に荒れ狂った。70年安保前後のことだ。K君は高校の同級生で真面目な色白の秀才だった。1浪した私が彼と同じ大学に入学した時には、現役合格の彼はすでに学生運動に参加していた。K君の誠実な人柄と熱心さに、高校仲間が何人も同じ政治サークルに加入した。ところが、同じ学寮に寝起きしながら、ノンポリの私には一度も彼から勧誘がなく、廊下ですれ違う時も軽く挨拶を交わす程度だった。
 学内ばかりか社会を騒がせた学生運動だが、安保闘争の挫折を境にして急速に熱がさめ、学生たちは就職活動に国家試験にと舵を切っていった。最初から予定されたかのような「鮮やかな」転身だった。

 卒業が近づいた4年生の2月頃、キャンパスでしばらく振りにK君を見た。彼は大学では1年先輩だから、本来なら前年に卒業しているはずだ。その彼が、ある学部の自治会委員長として、時計台をバックにマイクを片手に叫んでいた。閑散とした広い構内に拡声器を通して彼の声が響く。だが立ち止まって聞きいる学生はいない。政治の季節はとっくに終わったのに一人で訴えている彼の胸中はどんなだったのだろう。
 K君とはその後会っていない。時々送られてくる高校の同級生名簿には、彼のところは氏名だけで住所や勤務先は空欄のままだ。
『悲の器』を読みながら、彼の姿が脳裏に浮かんだ。

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