継体天皇ゆかりの地巡り
五月、京都で会合があったついでに、翌日一日かけて予ねて計画していた継体天皇の史跡巡りを実行した。
越前で育った継体は、武烈天皇崩御の後、大伴金村らに招かれて507年に河内樟葉宮(枚方市)で即位した。その後山背の筒城宮(京田辺市)、同じく山背の弟国宮(長岡京市)へ遷都して、大和の磐余玉穂宮(桜井市)へ入ったのは即位から20年後のことだった。
その理由については、継体の即位に抵抗する勢力があったからといわれるが、それとは別に継体にとっては大和へ入ることにそれほどの必然性がなかった、という見方があることを最近知った。
継体の父は近江の彦主人王であるが、豪族息長氏の一族である。息長氏は琵琶湖の湖上交通を支配して繁栄し、当時近畿北部から北陸、東海にまで影響を持ったといわれる。そして一族は山背南部にも進出していたことがわかっている。つまり琵琶湖の交通路に加えてそこから流れ出る淀川水系にまで勢力を伸ばしていたのである。
継体の力の基盤は息長氏の経済力にあった。宮を営んだ樟葉は淀川水系の要衝、弟国も淀川に流れ込む桂川の流域にある。そして筒城は淀川水系と並んで重要な木津川水系の拠点だった。
継体は、自らの勢力基盤の拠点を転々として様々な文物の交易を通じて力を蓄えていったと考えられる。
そして大和の豪族たちにとって、継体のその豊かな経済力こそが魅力だったに違いない。そういう力関係を想定すれば、継体が急いで大和に入る必然性はなかったと言えるのである。加えて継体以前の応仁から武烈に至るいわゆる河内王朝といわれる天皇は、いずれも大和にはいなかったのだからなお更である。
宮内庁指定の継体天皇陵は太田茶臼山古墳(茨木市)であるが、学術的にはその近くの今城塚古墳(高槻市)が真の継体陵とされる。いずれも大和ではない。
阪急、京阪、近鉄を乗り継いで継体天皇ゆかりの地を巡り歩いた一日だった。帰りの新幹線でのワンカップの酒が五臓六腑にしみわたった。