伏見城と安土桃山時代
伏見ブラリ旅と称して名水と十石舟で遊んだものの、何だか物足りない。そう、豊臣秀吉が築いた伏見城が抜けているのだ。
地図を見ても伏見城は記載されていない。確かに「伏見桃山城運動公園」内に鉄筋コンクリート構造の模擬天守閣はあるが、これは遊園地として建てられたもので全く別のものだ。
最初の伏見城は秀吉が別荘として建てた指月伏見城だが、慶長の大地震で倒壊してしまい(1596年)、木幡山に移築して豪華な飾りが施された大規模な伏見城が出来た(1598年3月)。ところが同年8月に秀吉は没し、伏見城には秀頼の後見人となった徳川家康が入った。
石田三成と上杉景勝の謀りに、家康は罠にはまったように見せかけて会津征伐へと伏見を発った(1600年)。その際、留守居役鳥居元忠に「城を枕に討ち死にしろ」と命じ、籠城一ヶ月余の8月に落城した。その2ヶ月後に家康は関ヶ原に勝利し、諸大名に伏見城の修築を命じた。
1603年2月、家康は伏見城で征夷大将軍に任ぜられ、以降1606年まで毎年2月に伏見城に入り、10月に江戸城に帰っていた。僅か5ヶ月しか伏見城に居なかった秀吉に比べ、家康は3年間も伏見城の主であった。
豊臣家の滅亡後、その威光を偲ばせる伏見城は好ましくなく、1623年、3代将軍家光の時に廃城となった。廃城に際し各地の寺社に遺構が移築され、伏見城は完全に地上から消滅した。
その地に桃の木が植えられ、桃山という地名が江戸時代に生まれた。従って、安土桃山時代とはいうものの、その時代には桃山という地名はなく、本来は安土伏見時代、あるいは秀吉の居城であった大坂城に因んで、安土大坂時代であるべきだが、何故か安土桃山時代という時代区分が名付けられた。
明治45年、明治天皇が崩御され、京都に墓所を望まれていたことから、伏見城本丸跡を中心に明治天皇陵「桃山御陵」が築かれた。
現在は宮内庁の管理下で、緑豊かな参道と230段の石段の先にご陵がある。