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「800字文学館」

渋沢栄一氏の再認識

大津 隆文

 東京都北区王子駅のすぐ隣に位置する飛鳥山公園、その一角にある渋沢資料館を先日初めて訪れた。渋沢栄一氏の生涯が分かりやすく展示されており、それを見て私は氏の功績を再認識し今までの不明を恥かしく思った。
 もちろん氏が明治以降のわが国実業界の指導者であることは知っていたが、他に比類なき巨人とまでは思っていなかった。例えば、渋沢の名を冠した会社として思い浮かぶのは渋沢倉庫くらいで、三菱、三井、住友などの財閥に比べると見劣りする感じがあったからだ。
 また、些末なことかもしれないが、『論語』を人生の指針とし、「道徳経済合一説」を唱えた氏が、女性関係については必ずしも厳格ではなかったということも漏れ聞いた。言行一致していないのではないかと若かった自分は思った。

 しかし、今回知ったのは、氏の考え方の基本が、財閥の方式とは異なり、「合本組織(株式会社)」にあったことだ。資本を皆で出し合いその合議で会社を運営していくという本来の資本主義を日本に根付かせようとしたのだ。氏は五百あまりの会社の設立に関わったというが、オーナーやワンマン経営者になろうとはしなかった。一方で商業会議所、銀行協会、証券取引所等、経済界共通のインフラの整備を主導した。
 この機会に渋沢栄一の伝記小説ともいうべき城山三郎の『雄気堂々』を読んだ。埼玉県深谷市の農村に生まれ若き日は尊王攘夷の志士であった氏が、縁あって一橋慶喜の家臣となり、パリ万博使節団に随行して見聞を広め、帰国後新政府に求められ大蔵省に奉職、やがて実業界に転じて活躍する波乱に満ちた半生が描かれている。
 その生き方には「私利を求めず公益を図る」という志士の気概が首尾一貫しており、「渋沢財閥」を残すことは念頭になかったようだ。また、最初の結婚相手の千代夫人に対する深く細やかな愛情も描かれている。自分は本当に浅学狭量であった。
 ひと言で言えば、氏は日本に株式会社、資本主義の花を咲かせた花咲爺ともいうべき存在であった。

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