『死者の書』を読む
岩を滴る雫の音など、日常で耳にすることはあるまい。
した した した。折口信夫著『死者の書』は山上の塚穴の底で屍が聴く水の音で始まる。
「あゝ 耳面刀自」。よみがえる言葉。死の間際に見初めた女の名だ。屍の記憶のつぶやきは読者をあの万葉歌へと導く。
ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
同時に、自らもその身は謀略に無念の死を遂げた滋賀津彦(大津皇子)と、思い至るのだ。
こう こう こう。月下の峰にこだまするのは「魂よばい」の行者の声。「をゝう……」と目覚めた皇子の魂が応える。貴族の郎女(姫)の魂を呼び戻す呪術が、あらぬ人の霊を呼んでしまったのだ。
この地当麻の語り姥が皇子と郎女の因縁をとり結ぶ。
「郎女はご存じおざるまい。……お生まれなさらぬ前の世からのことを」。姥は姫に語りつつ、読者に物語の糸口を明らかにする。
神代の始祖が大王に供する水を求めた葛城当麻の地。語る間も水は二上の男嶽女嶽に滴る雫を集めて流れ下る。皇子の想う耳面刀自こそ藤原始祖の姫。皇子の霊魂は当代藤原一の姫に俤となって現れる。彼岸の山の入り日に神々しく重なるその俤びとを慕って、郎女は麓の寺に籠る。
つた つた つた。夜ごと寝所を訪うのは姥の昔語りの天若日子か、皇子の霊か。霊魂も耳面刀自も藤原の姫も語り姥もひと流れの時の節くれ。
釈超空の名を持つ歌人でもある著者は、思うがままに万葉の世界を操る。大伴家持をして都の風物を語らせれば、遠い世の季節と自然事象のさやけさを、万葉ことばをちりばめて綴る。読者は声に出し音に酔い、よろずの言の葉のシャワーを全身に浴びればよい。
をゝ 寒い。尊いおっかさま。着物を下さい……。着物を。
堅い岩床に横たわる屍が赤子のようにむずかる。
郎女が蓮糸を紡いで織る布は、みるみる曼荼羅に変じて死者の書となり衣ともなる。着せるのは郎女か、耳面刀自か皇子の母か語り姥か。もはや、死者も生者も金色の曼荼羅図に浮かび上がる色身なのかもしれない。