エストニア人の誇り
ヘルシンキからフェリーでエストニアに入った。首都タリンは中世ハンザ同盟で栄えた港湾都市、清潔な街だった。人々の表情や街並みに何かしら親近感が湧く。聞けばエストニア人は印欧語族ではなくウラル語族という。アジアに近い血が流れているのだ。
少女の幼さを残す現地ガイド嬢が、九州訛りの日本語で案内してくれた。別府の大学に四年間留学したという。
ロシア帝国の支配下にあったバルト三国は1918年独立した。周辺の大国に支配され続けてきたエストニア人にとって初めての独立国家だった。
しかし国家の運営は困難を極めた。しかも西側諸国が独立を認めたのは、民族自決の流れもあったが、革命後のソ連に対する防御線を期待する思惑もあった。それが現実となり、39年独ソ不可侵条約ではバルト三国をソ連圏に組み込む密約が交わされ、翌40年ソ連が完全占領する。
以後多くの知識人、文化人、聖職者がロシアへ強制移住させられ、ソ連主導の社会主義体制の構築が行われた。その頃のKGBの恐怖を、ガイド嬢は自分が体験したかのように説明してくれた。
1985年ソ連で始まったペレストロイカは東欧に波及し、88年エストニアでは人民戦線が結成された。最初は民主化運動の域を出なかったが、次第に独立回復を求める運動へ高まり、200万人の人々がバルト三国の首都を手をつないで結ぶ「人間の鎖」をつくって国際社会にアピールした。そして91年エストニア最高会議は独立を決定、ソ連軍はエストニアから撤退したのである。バルト三国の中で、エストニアだけが平和裏にそれを実現した。「歌う革命」と呼ばれるゆえんである。
2004年バルト三国はNATOとEUに加盟、エストニアは今日IT先進国として注目されている。
「私の家はプロテスタントですが、父と母はソ連時代にもそれを守り通しました。独立から百年、エストニア人はその誇りと文化を大切にしてきたのです」とガイド嬢は胸を張って言った。