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「800字文学館」

等伯と裏狩野

池田 隆

「久蔵が死んだ」
と京都に住む長谷川等伯のもとへ突然知らせが入った。絵師として嘱望され、長谷川派を継がせる積りの息子である。狩野派と共同で名護屋城の障壁画制作を請負い、勇んで九州へ出掛けていたが作業中に足場が崩れたとのこと。

 これは安部龍太郎著の長編小説「等伯」の一場面である。等伯がこの衝撃を法華経の力で克服し、「松林図屏風」を描く個所が本書のクライマックスとなる。「悟りに到達するにはその最終階梯で初心に戻れ」という意の日蓮の教え、「等覚一転名字正覚」が信者の彼に名画を書かせたと著者は語る。
 本書は狩野派という日本史上で最強最長の絵師集団に対して、一介の地方絵師だった長谷川等伯が挑む安土桃山時代の成功譚である。その過程で彼は愛息の突然死が「裏狩野」と呼ぶ狩野派の裏組織の仕業であると突き止める。
 狩野派が時代を越えて優れた多くの絵師を輩出し、技能を伝承し、他派にも広く影響を与えたのは確かである。しかしその権威維持には表に出せない工作も必要だった。朝廷や大寺院、時の権力者に取り入り、台頭してくる競争相手も潰さねばならない。そのような役目を担うのが当主直属の「裏狩野」であったと著者は記す。
 法華経の功徳よりも世俗的でミステリアスなこの話に興味を覚えたが、まさかそれを実証する史料や痕跡が残っているとは思わなかった。ところが本書に誘われて紐解いた「長谷川等伯と狩野派」と題する出光美術館発行の画集の解説文を読んで驚く。
 江戸初期絵画の第一人者、狩野探幽が等伯筆の「竹虎図屏風」に周文作と偽の鑑定文を自分の名前で堂々と書き加えていたことや、「白鷺図屏風」にある等伯の印章が雪舟筆と改竄されていることが紫外線検査など最近の調査で判明したとある。著者はこの辺りの知識も得て、歴史小説作家として「裏狩野」を思いついたのであろう。
 狩野派の悪だくみが功を奏し、等伯の名は昭和初期まで長らく絵画史から消えていた。世の権威の一面を物語る。

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