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「800字文学館」

金足の郷の菅江真澄

大月 和彦

 夏の甲子園大会で準優勝した秋田県の金足農業高校は、出場校中数少ない公立校であり選手は地元出身者だけという。
 「汗と涙にまみれて」青春をたたえる感動話や美談を垂れ流す報道にうんざりし、プロ野球の下請けになった感のある高校野球に違和感を持っていたが、金足農高の快挙は一服の清涼剤だった。

 球場に流れた校歌に「可美(うま)しき郷(さと)我が金足……」とあった。
 同校のある秋田市金足追分は市の北部に広がる田園地帯。内陸の丘陵地帯と日本海沿いにある天王砂丘に挟まれ、男潟・女潟など多くの湖沼がある低湿地で、一帯は県立小泉潟公園になっている。
 かつては南秋田郡金足村だったこの地区は昭和の市町村合併で秋田市に編入された。現在も「金足」を冠した町名が多い。

 秋田を拠点にして東北地方を歩いた旅行家菅江真澄は、200年前に男鹿から金足の村に入り、見聞したことを旅日記『軒の山吹』に著わしている。山吹の花を餅と一緒に家の軒先に飾る風習に興味を示し、スケッチとともにつぎのように書く。

文化年間のある日男鹿から神足(かなせ)の荘へ向かった。
ある村に入ると春のお祭りだった。枯れた葦の茎に丸めた餅を串刺しにし、山吹の花といっしょに家々の軒先にびっしりと葺いている。花の散り具合から作物の吉凶を占うのだという。
花が散っていくのが風情があり、珍しく不思議な光景だった。

 以来、「うましき郷」金足(かなあし、かなせ)の荘は、山吹の里と呼ば れるようになった。

 小泉潟公園内に県立博物館や真澄が滞在した重文の旧奈良家住宅がある。
 真澄は豪農奈良家で厚遇され、ここで藩庁の歌人や書家、藩校明徳館の教授那珂通博らと知り合い交流を深めた。那珂を通じて藩主佐竹義和に謁見し、晩年に力を注いだ『出羽六郡地誌』作成の内命を受けたとされる。
 旧奈良家の庭に「菅江真澄の道」の標柱がある。

 「菅江真澄資料センター」が置かれている県立博物館で金足農高の快挙を記念してチームの写真展が開催されたという。

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