流山の小林一茶
千葉県の流山は、江戸中期から江戸川水運の重要な河港として栄えた。とくにみりんの製造のまちとして発達した。幕末期には新選組が陣を敷き、新政府軍に包囲されたため隊長の近藤勇が自首した地としても知られている。
江戸の民衆文化が花開いた文化・文政年間には、流山にも寺子屋ができ、子どもたちが読み・書き・そろばんなどの実用的な知識を学ぶようになった。このころ俳句や川柳を楽しむ人が現れた。みりん業者秋元三左衛門は、本業のかたわら双樹と称して俳句をたしなんでいた。
江戸後期の俳人、小林一茶は流山を頻繁に訪れている。15歳の時北信州の柏原から江戸へ奉公に出された一茶は、一時期消息が不明となっていた。この間は、下総国馬橋の商人大川立砂の家に丁稚奉公していたのではないかとの推測がある。一茶が江戸俳壇で名前が出てくるのが25,26歳のころ。西国の行脚を終え、江戸にもどった寛政年間から文化年間にかけてだった。駆け出しの俳諧師一茶はしばしば流山の双樹を訪ね援助を受けたといわれる。
双樹宅に逗留中に詠んだ句に「越後節蔵に聞こえて秋の雨」がある。米の仕込み時期に越後から出稼ぎに来ていた杜氏が唄う越後の歌に耳を傾ける一茶。一茶の故郷信州柏原は越後に隣接する。彼らの歌声はなつかしく一茶の胸に響いたのだろう。
秋元家は戦前まで、手広くみりんの製造販売を行っていた。一茶が滞在した建物が「一茶双樹記念館」として秋元家の敷地に整備され公開されている。流山の中心街近くの住宅地に往時の繁栄を偲ばせる建物と庭園が再現され、茶会や句会等に利用されている。庭園に「夕月や流残りのきりぎりす」の句碑がある。洪水に見舞われ、家も立木も流された流山で、水が引いた後、月がかかりきりぎりすが鳴いている情景。句碑は一茶の故郷に近い黒姫山の石材が使われているという。
一茶は、流山のほか、小金、馬橋、布川から内房の木更津、富津、金谷、保田など千葉県各地を訪ね交流を深めた。俳諧師一茶の生活の糧を得る旅でもあった。