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「800字文学館」

『秋山記行』から(1) 甘酒村

大月 和彦

 秋山郷は、苗場山と鳥甲山に挟まれた中津川沿いに散在する集落の総称で、平家の落人伝説が残る秘境だった。かつてはアワ、ヒエ などの焼き畑農業、狩猟や川漁、木の実の採取を生業としていた。明治以降も交通、電灯、教育、医療などの面で取り残され、車道が通じたのは戦後になってからだった。 

 『北越雪譜』の著者鈴木牧之は、文政年間にここを訪れ『秋山記行』を著し、秋山郷を世に紹介した。
 越後塩沢を出て翌日の夕方に小赤沢の枝村甘酒村に入る。
「…に、甘酒と云う二軒の村あり。一宇に立寄り、 しばし休足を頼み、腰うちかけ見廻すに、爰にも山挊(かせぎ)の留主にて、女性独りあり。色光沢(つや)とて世間の女子に替わらねど、髪に油も附ねば、あか黒くして、首筋まで乱れたるをつかね、垢附たる、手足も見ゆる斗りの短かきしとねを着、中入らしきも見えぬほつれたる帯前に結び、ぼろぼろしたる筵の上にて茶袋などを取り出す…」と記している。
 牧之が、冬はさぞ寂しいだろうと聞くと、女は里の人は一人も来ない、秋田の狩人が時々見えるだけ、と云う。昔からこの村は増えもしないし減りもしない。川向こうの大秋山の八軒は四十六年前卯の凶年に全滅した。その時は難渋したが凌ぎ、今は食い物に困らないと話してくれた。

 甘酒村は、牧之が訪れた時から10年後、天保7年(1836)の飢饉で滅びてしまう。女性一人だけが助かり、小赤沢の親戚の家にいたがまもなく旅に出て、その後の消息を絶つという話が伝わっている。

 秋のある日、甘酒村跡を訪ねた。「牧之の道」の標示板がある場所でデマンドバスを降り、山道を登ると平地が現れる。甘酒村の跡だ。
 家屋敷の跡は、後に水田を拓いたときに撤去され、墓地が村の跡を留めている。小さな墓が6基、一つに「宝暦」と刻んであった。
 外部から孤立していた秋山郷では凶作・・飢饉は死に直結していた。明治以降も飢饉に見舞われ、畑作の収穫はゼロ、草や木の根を食べてしのいだという。

 登山や紅葉見物でにぎわう秋山郷の昔の姿だった。

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