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「800字文学館」

タンカーに登る

野瀬 隆平

 目の前に赤黒い鉄の壁が垂直に立ちはだかっている。遥か上から垂らされた縄梯子に飛び移って登らなければならない。仕事なのだから。しかも、足元は上下に動いている。
 入社して5、6年、造船会社の営業を担当していた人間がなぜこのような場面に遭遇したのか。

 ことの発端はこうだ。ある日、得意先である船会社への出向を命ぜられた。
「君ら、船を売る商売をしているが、船を買った人がどのように、その船を使って商売をしているか、知らんだろう。勉強して来い」と副社長から直々に言い渡された。彼が発案者のようだ。
 確かに、自動車や一般の消費財ならば、売る方も使い勝手がよく分かっている。しかし、大きな商船ではそうはいかない。

 派遣された船会社での配属先は「油槽船部」だった。油槽船とはタンカーのこと。原油を輸入する会社から輸送契約をもらって、船の運航を計画・管理する部門である。
 どこの港でどんな原油を何トン積んで、どこの製油所に運んでくるのか。航海ごとに採算を最良にするよう、スピードや燃料の補給場所などを綿密に計画し、船への指示書としてまとめる。
 この書類を船長に手渡すのも仕事の一つだ。通常は荷役中の港に行って、接岸している船に乗り込んで渡すので何ら危険を伴わない。しかし、何らかの事情で接岸中に届けられないときには、沖に停泊している船にタグボートで近づき、甲板まで昇らなければならない。
 大型のタンカーともなると、荷揚げ後は海面から甲板まで10メートルを超える高さになる。波のあるときは、タンカー自身は揺れないが、小さなタグボートは大きく上下するので、縄梯子に飛び移るのは並大抵のことではなく危険を伴う。甲板の上では船員が、顔をこわばらせて恐る恐る昇ってくる若造を待ち構えている。差し伸べられた手に触れて、こちらはホッと胸をなでおろすこととなる。
 もう半世紀も前のことであるが、テレビなどで大型のタンカーを見ると想い出す光景である。

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