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「800字文学館」

美食礼讃 ーマグロのホホ肉ー

浜田 道雄

 大都会から離れた海辺の町に住んでいると、東京では味わうことのできない地元の食材に出くわして、思わぬ福徳を得ることがある。

 重く垂れ込めた薄暗い冬の空の下で鬱々とした日々を送っていたある日、いつも出かける魚屋でこれまでみたことがないものをみつけた。マグロのホホ肉だ。鮮やかな赤身肉に脂肪がきれいに散っていて、ちょっと見には松坂牛の霜降りのようだ。

「うまそうだな。でも、どう料理したらいいんだ?」
 どうしていいかまったく見当もつかないが、とにかく珍しいものは試してみるにしかず、だ。すぐに買い求めて、家で調理をはじめた。
 まず、縁を薄く切りとって口に入れてみる。肉は思ったより弾力があって、刺身には向きそうにない。では焼いてみるか? そう思って、魚焼き器を温める準備をしてうちに気が変わった。
「そうだ! ソテーしよう」

 せっかくの珍しい肉だから、バターなどを使っては風味を殺してしまう。ここはオリーヴ・オイルがいい。塩、胡椒はかるめにふって、ソースには白ワインをガバガバ使って、と。
 こうしてなんとか出来上がったのが、「ハマダ風マグロのホホ肉のソテーSaute viande joue de thon a l’Hamada」だ。

 ベランダで育てたパセリとバジルで飾った盛り付けが終わると、早速かぶりついた。  うまい! 肉は霜降りなんかよりも柔らかく仕上がって、ソースもうまく絡まっている。口に放り込むと、脂が溶けて旨味がゆっくりと口いっぱいに広がる。あっという間に平らげてしまった。 「うまかった! 俺の料理の腕もフレンチのシェフ並だな!」

 ふと気づくとさっきまでの鬱々とした気分など吹っ飛んでしまって、いまや人生を謳歌したい華やいだ活力が身体じゅうにみなぎっている。
「人間なんて、うまいものを食えばそれで幸せになる。鬱なんていってもしょせん美食には勝てないんだよ。それにしても、うまいものを食いたかったら自分で作るしかないな」と思いながら。

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