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「800字文学館」

明治は遠くなりにけり

稲宮 健一

 祖父母が映画「明治天皇と日露大戦争」を見て大感激して帰宅したのを覚えている。めったに揃って映画へ行くこともなかったのに。昭和三二年新東宝制作、嵐寛寿郎が明治天皇に扮して、日露戦争(一九〇四/五)の開戦の決断、旅順の攻防、日本海海戦を描いた。わが家は戦前の長子相続のしきたりで、祖父が亡くなるまで三世代が一ツ家で暮らしていた。祖父は明治十一年(一八七九)生まれ、金沢の生家は職人で貧乏暮らしの子沢山であったが、厳しい躾で育てられた。小学校を優秀な成績で卒業し、陸軍に入り軍人の道を歩んだ。日露戦争を兵士として戦い、足に弾を受けたが無事帰国でき、特務曹長で軍務を終えている。私が小学生のころ、捕虜のロシアの将校の写真が多数タンスに入っていたのを覚えていたが、古い家を壊した時散逸したようだ。

 祖父の葬儀の折、参列した祖父の弟から旅順攻略の激戦地で、死傷者が累々と積まれた山の中から、助かりそうなのを選んで手当され、ようやく命を取り留めたと聞いた。今でも不思議に思うのは、祖父から従軍中の戦地の話を一度も聞いたことがない。余程つらい思い出だったのだろう。祖父が亡くなった直ぐあと、大学の傍の歯医者にかかったら、私の苗字が珍しいので、祖父の縁者かと尋ねられた。歯医者は従軍医で一緒の戦場にいたとのこと。残念ながらもう少し早ければ再会が叶った。

 退役後、電気部品を扱う商社に勤めた。多分、軍隊で体験した組織を動かす知恵、管理業務、生来の負けん気気質などが買われたのかもしれない。兵士からの叩き上げ故に、独立心の旺盛な小商店主にとって、祖父は仕事と人生の良い相談相手だったようだ。古希の祝宴は業界の人が三〇名余集まり業界紙の記事にも載った。その商社で役員まで登り詰めた。今は一部上場の会社になっている。

 横浜の自宅に戦地で使われたさびた指揮刀(サーベル)が遺品として残っている。平成が終わると昭和は遠くなりにけるの感が強くなる。

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