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「800字文学館」

男の食材

首藤 静夫

「あー、またこんなに買ってきて・・・・・・」
 買物袋を開ける間もなく妻の悲鳴。
「この前も残ったじゃない、もう少し考えたら」
「1パックがでかいのだから仕方ないだろ。お前だって結構食べてるよ」

 川崎市の溝の口界隈は古くからの町である。昼は近くの買物客で、夜は工場などの勤め帰りが一杯やって賑わう庶民の町だ。自宅からは徒歩か自転車の距離で、たいていの物はこの町で揃う。
 駅の近くに十字屋商店というのがあった。魚屋や肉屋、八百屋、乾物屋などをまとめたような店だ。道路ぎわにも商品を並べ、寒風の中、売子が声を張り上げていた。
 週末になると酒の肴になる食材を求め、呑兵衛連中はよく通った。僕の目当ては魚介類。日により季節により並ぶ魚はさまざまだ。近海の珍しい雑魚も並ぶ。ご婦人方がバーゲン会場から動かないように、僕らも売場を行ったりきたりして離れ難かった。一度などは、僕の顔を見なれた店員が、
「マスター、まだ全部並べてない。奥で選んでいいよ」。商売人に間違えられたのだ。
 平成の初め頃、千円前後で買えたもの――タコ丸ごと一匹、蛤が二十数個、栄螺の中型十数個、生タラの半身二枚等。
 量が多すぎるが半分では売ってくれない。尤も田舎育ちの僕は、好きな一品を目いっぱいに食べるのが好きだ。チマチマと取り合わせた料理は食べた気がしないからこの店は僕に合っている。
 ある冬、韓国からの企業研修生をわが家に招待し、同僚含め四人で会食することになった。食材を求めにその店にいったら安康が出ている。ずっしりと重い。九百円という。すぐ買って、キムチ鍋にする具材もしこたま買い揃え、思い切り食べてもらった。
 この商店は今も営業している。だが以前の賑わいがない。勘定はレジ、魚はほとんどが切り身でラップされている。店員も減った。
 近くのゼロ番地は立ち退かされ、道が付け替えられ、大型のスーパーや若者向きの店が立ち並ぶ。
 新しい年号になりいずれ平成も遠ざかるのだろう。

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