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「800字文学館」

「日の名残り」を読んで

池田 隆

 カズオ・イシグロの代表作「日の名残り」を読書会で読むことになった。1920年代から40年代にかけ、英国の有力貴族に仕えた執事が主人公である。その頃に心を寄せ合った同僚の女性を訪ねようと、十数年後に一人でドライブ旅行に出掛け、道すがら往時を回想していく。
 回想内容が時間的に前後錯綜することなく、順を追うので話の筋が頭に入り易い。自動車旅行中に回想の糸口となる出来事を上手に配置した文章構成が心憎い。老大国と老人を主題とする小説の主人公として、貴族社会に特有の執事を選んだ作者の目の付け所にも感心する。それに名訳文が花を添える。近頃の作家の小説について行けず、まして翻訳ものは敬遠しがちだったが、読むうちに先を急ぐ気持ちになる。

 執事の主人は博愛的で、第一次大戦後のドイツやナチに対しても好意的な気持ちを持っていた。主人の館で内密に催される国際会議の前会合をアレンジする執事役は、内外の要人たちとも緊密に接し、世界という「車輪」の軸受けに相当する。沈黙しながらも全ての内情を知り、後年に老大国衰亡のプロセスを語る役として最適である。
 日本の武士道にも似た英国執事の忠義心や伝統的な立振舞いを「品格」と呼び、それを「公衆の面前で衣服を脱ぎ棄てない」ことに譬え、小説のキーワードとしている。執事はその品格を信条としてきたが、主人の挫折や民主化という時代の波に苦悩し、旅の最後に美しい夕日を見て漸く気を立て直す。

 作者は主人公の執事と貴族である主人の生き様を通して、超民主主義(ポピュリズム)化への危惧も述べたかったのではないか。それは民主革命の危険性を説くバーク著「フランス革命についての省察」や、オルテガの言「大衆に迎合することなく、自分と意見の異なる人とも粘り強く話し合い、政治的役割を果たすのが真の精神的貴族である」に見られる経験尊重主義である。国民投票による英国EU離脱の決定はイシグロの危惧が現実化したと言えよう。

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