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「800字文学館」

「名刺入れが届いております」。天使の声

志村 良知

 バスから降りて、渋谷駅改札口でスイカが入った20年来手に馴染んだ名刺入をコートの内ポケットに探る。無い。場所は一番外に着ている物の左内ポケットと決めているので、そこに無いとなるとパニックである。
 これまであまり物を失くしたことはない。記憶にある大物は海外出張中のクレジットカードと社員IDカードで、駐在員に借金したうえ、帰国後社長宛の始末書を書かされたが、それくらいである。

 バスに乗れたのだから、その時はあったはずだ。そこからのことを思い返してみるが名刺入を仕舞った記憶がない。全く無意識に内ポケットに入れたつもりで落としたらしい。バスはまだ走行中だろうからここで焦ってジタバタしても無駄だろう。しおしおと切符を買い、家に帰る。
 夜中、京王バスの遺失物のページにアクセスして届け出方法を調べる。
 そうだ、オクさんが最近クレジットカードでチャージするからとスイカに変えたので、古いパスモがあるはずだ。引き出しから探し出し、これでしばらく不便は無いと一安心。人事は尽くした。

 翌日、調べた番号に電話し、日にち、路線、時刻、落とした物の特徴を伝える。男性の係員が出て、しばらく探してくれている気配がして「二つ折りの黒い名刺入は届いておりません」の返事。
 ところが、それから3時間余り後、さっき電話した番号から返信。若い女性の声で「京王バスの遺失物係ですが、黒い二つ折の名刺入が届き、中に複数枚あった名刺の番号に電話しております」。まさに天使の声、入れておいた企業OBペンクラブの名刺が役立った。中身の確認後、受け取り方を説明してくれる。
 新宿に所要があった数日後、何十年振りかで丸ノ内線に乗り、京王バスの中野営業所に出向く。天使とは言い難かったが中年の女性係員が親切に応対してくれた。残額7000円余りのスイカもさることながら、欧州赴任直後に買って、1000枚以上の名刺を出入りさせた海外どぶ板営業時代の相棒が戻ったのは嬉しかった。

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