三国同盟
日本が痛恨の運命に身を投じた大戦を思いつつ三国同盟の軌跡を追う。背景に軍部主導の満州事変、満州国建設、北支への進出があり、日支事変(1937)より太平洋戦争に至る。
列強よりの圧力の中、軍部はドイツによる支那和平問題の解決を策した。日独「防共協定」(1936)が伏線にあり、蒋介石政府に軍事顧問を派遣するドイツを重視した。欧州の形勢逼迫により、ドイツ側からも急接近する。支那の問題は畢竟英米に対する問題であるが、日独共働の前提となった。イタリア、スペインも防共協定に加わる。思想的協定である防共協定強化、軍事同盟への交渉が日独伊間で進む。日本の同盟の対象はソ連であり、当時英米との戦争など問題外であった。ドイツによる対支仲介は失敗、軍部は、元凶は英米の妨害と断じ、反英米の世論を誘導する。
1939年、平沼内閣は同盟交渉を進めるも、同盟目的を対ソ問題に限定する外務省案は最後まで調和せず。ナチの欧州での侵攻開始、ソ連と不可侵条約締結に及び、平沼内閣は「欧州政情不可解」として退陣、交渉は空中分解する。この時こそ対独関係精算の好機であった。ドイツ必勝の宣伝にのる軍部は同盟交渉を再開、天皇陛下は、三国同盟に強く反対されたが、近衛公の輔弼説得により終に政府意見に従われ、条約は翌年に調印、世界に大反響が起こる。
去る二月、私は友人に誘われて奧湯河原に重光葵記念館を訪れた。重光元外相は降伏文書調印の全権代表として戦艦ミズーリに赴いた。戦犯として獄中にあり手記を残す。上記はその抽出だが、発刊された「昭和の動乱」は全世代の日本人への教科書である。外交官、外相として歴史に生き、この国を未曽有の運命に投じた昭和の十余年を、後世の研究者の難儀を予測する者の義務と述べ、偏見もなく、学術力をもって、詳細に書き残している。また大正期、伝統の派閥政治、一次大戦による日本の慢心、自由民主風の下での軍人軽侮、その憤懣が統帥権掌握へと急進化してゆく経緯についての明敏な洞察が印象深い。