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「800字文学館」

こころに蘇る味

新田 由紀子

 「おいしかった」と心に残っているのは子供の頃に食べた物ばかりだ。この年になれば、ぜいたくな料理もいろいろと口にしたけれど、鮮やかに思い出せるようなものはない。
 家から歩いて30分ほどのところの幼稚園に通っていた。園庭は太い幹の木々に囲まれ、花壇にはいつも花が咲いていた。すぐ近くには整然とした街並みを誇る「城南住宅」があって、都心に通う勤め人の子供たちが多く、石神井川を取り込んだ遊園地もある。畑と林と農家が目立つ郊外で、幼稚園は絵本の中の別世界のようだった。
 それは給食だったのか、白い陶器のカップにクリーム色の汁が出た。芳しいバターの香りとほうれん草の緑色。いまでも鮮やかに蘇る。「なんておいしいおつゆなのかしら」。スプーンをつかみ、カップを持って飲み干した。こんなハイカラなものは、家の母は作らない。汁物ならば、みそ汁か具沢山のしょうゆ味のおつゆに決まっていたから。
もう一つの味の思い出は、北関東にある母の田舎でのことだ。母は何かの用事でひと足先に東京に帰り、私たち兄妹は何日かを祖母のもとで過ごした。
 日が暮れると、祖母と嫁さんが一対の影のようになって夕飯の支度をする。祖母は手ぬぐいで髪を覆い、土間の竈にかがんで薪をくべる。立ち昇る煙の向こうであせた色の割烹着姿の嫁さんが鍋を据える。湯気をたてて、おかずがいろりの間に運ばれる。天ぷらに茶碗蒸し、野菜の煮物や炒め物、それに山盛りの漬物が並んだ。きのこ、かぼちゃ、さつまいも、菜っ葉に鶏卵。家の周りで手に入る食材ばかりなのだ。
 家に帰って「田舎のご飯おいしかった」と言うと、「おばあちゃん、そんなにご馳走作ったの」と母は遠い目をした。商店のおかみさんとしていつも忙しく立ち働く母は、家族の食事に手間をかけていられない。田舎の母の懐かしい味を思い出していたのだろう。

 家の食卓には出なかったクリーム味のスープと、祖母の温かな田舎料理。この二つの味が今でも心に蘇る。

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