「羊と鋼の森」を読んで
小説「羊と鋼の森」(宮下奈都著)を読書会で読むことになった。本屋大賞を受賞し、映画化もされた作品とのこと。
北海道の森のなかの家庭で育った高校三年生の若者が、たまたま学校のピアノの調律に訪れた天才的なベテラン技師と知り合う。その仕事ぶりと、森を想起させるピアノの音や機構に感銘を受け、ピアノ調律師になろうと決意する。都会の専門学校で調律の基礎を学び、地元にある彼の楽器店で勤め始めた。自己の才能に不安を抱きながらも、先輩達から親切な指導を受け仕事をコツコツと習得していく。担当先のピアニスト志向の双子姉妹に対する淡い恋心も話に色を添える。
ストリーは至って単純で素朴である。外連味や大きな波乱もなく、読み始めて暫くは欠伸が止まらない。読書会の本でなければ、ここらで投げ出したであろう。だが読み進めるうちに、六十年ほど前、入社間もない頃の己の気持ちを思い出してきた。
仕事の対象は楽器ではなく発電用タービンであったが、精緻な機械構造物という点では共通している。立派な技術者に早くなりたく、職場の先輩などから学び取ろうと必死であった。もう多くは故人となったが、その方々の顔までも頭に浮かんでくる。
私自身は本書から新に幾つもの知識を得た。例えば、ピアノの同じ単音にも喜怒や明暗の違いがあること、ハンマーの素材が羊毛で、羊の成育環境でも音質が変わること、ピアノのキャスターの向きが会場の音響効果に影響を与えること、等々。
では、この小説は何を読者に最も伝えたいのか。雑知識や青年の単なる成長過程だけではあるまい。 ピアノは演奏と調律を別々の人が行う特異な楽器である。ピアノの名演奏は両者共同作業の賜物の筈だ。だが晴れ舞台に立ち、名声を得るのは演奏者のみである。調律師を介して、広く世の「影の功労者」に脚光を当てることが作者の大きな意図ではないか。双子姉妹の姉が名ピアニストを、妹が姉専属の調律師を目指すという文末の一話もその事を暗示する。