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「800字文学館」

吉野 ~桜・信仰・南朝~

清水 勝

 桜を求めて吉野に行った。下の千本は満開、中の千本もほぼ満開。この後は上の千本、奥の千本と続くようだ。見どころの吉水神社から『一目千本』を眺める。
 見事!
 これらの桜は誰が植えたのか?
 1300年前、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が山桜の木にご本尊蔵王権現を刻んだことから桜がご神木とされた。それ以来、修験道の行者や信者によって献木が行われ続け、今日の山一帯が桜の景観となったという。
 咲き誇る桜の中に、木造建築として東大寺大仏殿に次ぐ大きさの修験道の根本道場・金峰山寺(きんぷせんじ)本堂の蔵王堂が聳え立っている。その近くに吉野朝宮跡の碑があった。
 山奥であり、山伏が修行するのは解るが、なぜ後醍醐天皇は南朝をこの地に求めたのか。
 奈良時代に不老長寿を願う「神仙思想」により、吉野は神仙境として、日常の生活とは全く異なった世界、神仙の住む世界とされ、都の人のあこがれの地になった。そこはまた再生、蘇りの可能な空間としても捉えられていた。
 大化の改新後、身の危険を感じて吉野に入った古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)、天智天皇の弟で皇嗣問題などが原因で不和となり、満を持して吉野に入った大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)。時代は下って、頼朝からの追っ手を逃れ静御前とともに吉野で逃亡生活を送った義経。歌舞伎の「義経千本桜」はここが舞台である。
 そして足利尊氏に幽閉されていた後醍醐上皇は神器を持って吉野に逃れ、後醍醐天皇としてこの地・吉野に南朝を置いた。京都に北朝の光明天皇、吉野に南朝の後醍醐天皇がいる南北朝時代が始まった(1336年~1392年)。
 後醍醐天皇は京都への復帰を望みながらこの地で崩御された(1339年)。その御陵は北向きである。これは吉野からは北の方向にある京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表している。
 後醍醐天皇に思いを馳せながら、散る花びらの中を歩いた。

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